認知症の母がくれた「贈り物」 映画「ぼけますから」監督が講演 103歳の父に”生きがい”/兵庫・丹波市
力借りずいらいら 症状進み無表情に
介護する家族が機嫌よく暮らすための結論は一つ。家族だけで介護を抱えないことだ。母が認知症になった後、父は「わしの女房じゃけえ、わしが面倒をみる」と言い張り、2年間頑張った。けれど、90代の父は1人でやるからくたびれる。また、耳が悪いから一日中、母の動きを目で追っていた。本や新聞を読むのが好きなのに、自分の好きなことを何もできず、いらいらし始めた。 父は母を家の外に出さなくなった。引きこもり状態になった母には、耳が遠い父しか話し相手がいない。会話が成立せず、「お父さんは私がおかしゅうなっとるから、ばかにしとる」と被害妄想を持ち、口を利かないようになった。認知症は進み、無表情になった。 私は父に内緒で、地域包括支援センターに相談した。「戦前、戦中生まれは、人の世話になるのが恥になると思っている人が多い」と言う。「お任せください」と、父を口説いてくれた。プロなので、頑固なお年寄りを口説き、介護サービスにつなげるためのさまざまな引き出しを持っている。2回目の訪問で、父は「介護を受ける」と言ってくれた。もう少し前に相談に行っていれば、という後悔がある。
支援受け表情変化 家族に笑い戻る
サービスを受ける前と後で、母の表情はまったく変わった。元々社交的な人。デイサービスで他の利用者と歌ったり、ゲームをしたり、おしゃべりしたりして笑顔が戻った。デイサービスに行ったら、たまたま母と同じ女学校出身で、認知症のおばあさんがいた。毎回、「○○小学校出身で」という自己紹介から始まり、「女学校あるある」で盛り上がる。すると、母は「あれも覚えている」「これも覚えている」と、自信が戻り、認知症になる前のようなしゃきっとした状態で帰ってきた。認知症になっても外に出て、社会と触れ合うのは大事。 頑固だった父も介護サービスを受け始めると、自分の娘ぐらいの年齢のヘルパーさんを、すごくかわいがっていた。料理も得意なヘルパーさんで、二人の食欲がわき、ふっくらした顔になった。笑い話がある。ヘルパーさんがおでんを炊いてくれた。父はそれがあまりにおいしく、「二日に分けて食べよう」と、半分を台所に置いておいた。すると、夜中に起きた母が全部食べてしまった。鍋をきれいに洗い、伏せておいた。 次の日の朝。父が台所に行くと、おでんがなくなっていた。「おっかあが食うたんか」と聞くが、何時間もたっているので、母は覚えているはずもない。父が「おいしいおでんじゃったのに、おっかあがみな食うた」と、私に電話をかけてきた。母は「私は知らんと言いよるじゃろ。お父さんがぼけたんじゃない」と叫んでいた。 信友家に笑いが戻ってきた。私と父が笑っているので、母もほっとした顔をしていた。そのとき、この笑いがないから母はつらかったのでは、と思った。「二人が笑っているから、ここにいても許される」と思ったのでは。ヘルパーさんという社会からの「風」が生まれ、私たちも気持ちに余裕ができた。