富士山と宗教(20) 八合目から頂上は県境なし。土地未登記の「異界」
昭和20(1945)年12月15日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が神道指令を発し、明治維新以来の国家神道は終焉した。昭和22(1947)年には新憲法が施行され、宗教は自由化し、富士山を取り巻く信仰も宗教法人が担うことになった。戦後、富士山と宗教のかかわりはどのように変化したのだろうか。
国有境内地から宗教法人の所有に
昭和49(1974)年4月9日付の新聞夕刊各紙は、富士山頂を富士山本宮浅間神社(昭和51年に富士山本宮浅間大社と変更、以下文中の浅間神社は現在の富士山本宮浅間大社と同一)の所有と認めた最高裁判決を一斉に報じた。静岡新聞「山頂は浅間神社のもの」と見出しがついた記事を引用しよう。 「富士山八合目以上の土地が国のものか、それとも富士山本宮浅間神社のものかで争っていた『国有境内地譲与申請不許可処分取り消し請求』の行政訴訟で、最高裁第三小法廷(江里口清雄裁判長)は九日、神社側を勝訴とした一、二審判決を支持し、国の上告を棄却する判決を出した」 江戸時代、幕府は安永の争論を経て富士山の八合目から上を浅間神社の所有と認めた。しかし、明治維新になると政府によって神道が国教化され、神社の領地は上知令とその後の地租改正によって国有化された。 富士山の八合目から山頂の土地についても明治10(1877)年頃までに国有地になった。土地区分は国有林野(明治22年に一部、御料林野に編入)とされ境内地ではなかった。浅間神社は富士山八合目から上の土地を境内地とするよう所管の内務省に働きかけをしたが、区分査定で一度境内外としたものを境内に戻すことは出来ないと聞き入れられなかった。しかし、明治32(1899)年に国有林野法が制定されるなどしたことから昭和7(1932)年までに富士山八合目から上の土地も国有境内地と認められ、以降、富士山の八合目から山頂は国有境内地になった。
4%しか譲与されず行政訴訟を提起
戦後、宗教が自由化され政教分離が図られると国有地を社寺が使用することはできなくなり、そのための措置として国は昭和22(1947)年「社寺などに無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」を制定し、明治期以降、国有化した社寺領地を社寺に譲与することにした。 浅間神社も法律にもとづいて昭和23(1948)年4月、富士宮市の本宮敷地と富士山八合目から山頂までについて国に譲与申請したところ、本宮敷地は譲与が認められたものの八合目から山頂については全体の4%の譲与しか認められなかった。 男体山や白山、月山など他の神体山についてはその境内地全域が神社に譲与されたのに、富士山については4%の譲与しか認められなかったことから浅間神社側は「富士山頂八合目以上の地域は、どの部分をとりあげてみても御神体の一部であり、不可分の全一体をなしている」などとして国の処分の取り消しを求めて昭和32(1957)年2月8日、東海財務局長を相手取り名古屋地裁に提訴した。昭和37(1962)年3月27日の名古屋地裁判決、昭和42(1967)年7月19日の名古屋高裁判決ともに浅間神社の訴えを認め、昭和49(1974)年4月9日の最高裁判決で富士山八合目から山頂の土地が浅間神社の所有と確定したのだった。 国はなぜ富士山頂の浅間神社への譲与を当初、認めなかったのか? 最高裁の判決によれば、国は公益上の必要性を主張しており、平易に言うなら「みんなの富士山は特定の宗教法人が所有するのではなく国有にするのがふさわしい」との主張だ。しかし、この主張に対して最高裁は「国民感情や具体的な計画に基づかない文化、観光その他公共の用に供する必要等は、国有として存置すべき公益上の必要には当らないものといわなければならない」として国の主張を退けている。