70年目の広島・長崎「原爆の父」の後悔 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
8月6日は広島、9日は長崎に原爆が投下された日です。原爆によって、広島では14万人、長崎では7万人の命が奪われました。では原爆とはどのようなものだったのか? どういう経緯で生まれたのか? 戦後70年を迎える今年、「原爆の父」と呼ばれるオッペンハイマーという人物を中心にあらためて振り返ってみました。
《マンハッタン計画》
1938年12月、ヒトラー政権下のドイツの科学者が核分裂エネルギーを発見しました。分裂性のウラン235に中性子を当てて得られる巨大なエネルギーを爆弾にする可能性が生まれたのです。ナチスの迫害から逃れてアメリカにいたアインシュタインら亡命ユダヤ人は、ドイツの原爆開発をアメリカが注視し、迅速な行動を取るべきとの書簡をルーズヴェルト大統領に送ります。 39年に「ウラン委員会」が置かれ、ニューヨーク・マンハッタン管区の陸軍研究所に由来する「マンハッタン計画」が、イギリスと共同で秘密裏に始まりました。兵器としての開発は41年10月以降です。43年設立のニューメキシコ州ロスアラモス研究所を中心に進められました。初代所長が物理学者のユダヤ系アメリカ人の物理学者ロバート・オッペンハイマー。ナチスより先に原爆を製造するのが至上命題でした。 原爆の製造には天然ウランに0.7%しか含まれていないウラン235を濃縮する必要があるので、天然ウラン6000トンを内外で獲得し、濃縮工場はもとよりウランから、原爆に応用できるもう1つの元素プルトニウムを分離する工場、爆弾製造所などを続々と造り、最大で約12万人ともいわれる人員と、当時の日本の国家予算をも上回る20億ドルもの巨費を投じてまい進します。 所長のオッペンハイマーは、1904年生まれ。いわば「万能の天才」で12歳で研究論文を書き上げてハーバード大学化学科をトップで卒業しました。25歳で大学助教授、32歳で教授へ就任しています。能力に加えてユダヤ系の一流原子物理学者のリクルーターとしても手腕を発揮しました。44年には最大の難関であったウラン濃縮のメドが立ちました。 ところが翌45年5月、最大の不安材料であったナチス・ドイツが降伏。ヒトラーは直前に自殺しました。第二次世界大戦を戦う枢軸国が日本のみとなっても、4月に死去したルーズヴェルト大統領の後任として副大統領から昇格したトルーマン大統領の下、原爆製造は進められます。 そしてついに、テネシー州オークリッジの施設でウラン型の、ワシントン州ハンフォードではプルトニウム型の原爆計3つの製造に成功し、7月にニューメキシコ州アラモゴードでプルトニウム型の核実験に挑みます。これが暗号名トリニティ(三位一体)から取った「トリニティ実験」です。