70年目の広島・長崎「原爆の父」の後悔 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
《トリニティ実験》
実験は成功に終わり、オッペンハイマーは興奮に体を震わせたといわれています。実験場がある場所は観光地としても有名なサンタフェから車で約3時間半のところにあり、今でも4月と10月の2回、一般公開されています。 45年5月には、日本への原爆投下を具体的にどこにするか会合が持たれ、京都、広島、横浜、小倉の4都市が挙がっていました。7月には対日戦争終結のため米英ソの首脳が集まってのポツダム会談が行われ、宣言が出されました。4月から就任していた鈴木貫太郎首相は表向き宣言受諾を拒否しつつも、中立条約を結んでいたソ連の仲介などで、何とか終戦に至れないか密かにはかっていました。 トリニティ実験成功の報はポツダム会談の直前に、トルーマン大統領へ届いています。しかし宣言には原爆の存在はまったく述べられていませんでした。実験が行われたのと同じ日に、ウラン型原爆が出撃基地のあるテニアン島へ運ばれていきます。
《広島・長崎に原爆投下》
8月6日朝、戦略爆撃機B29の一機で愛称「エノラ・ゲイ」が広島にウラン型原爆「リトルボーイ」を投下。世界で初めて原子力が戦争目的に使われ、14万人が亡くなりました。9日にはプルトニウム型原爆「ファットマン」が長崎に落とされ、7万人の命を奪いました。 日本軍および政府の動揺は激しく、同日に対日参戦したソ連の動向も相まってポツダム宣言の受諾を最終的に昭和天皇が決断し、レコードに吹き込んだ終戦の詔書が15日に流され、事実上、終戦となりました。詔書に「敵は新(あらた)に残虐なる爆弾を使用して」とあるように、原爆のもたらした脅威は甚大でした。 この結果を「原爆の父」となったオッペンハイマーはどう受け取ったのでしょうか。彼は日本への投下を支持しており、広島での「成果」を自慢げに研究員へ語ったとされています。ところが広島、長崎の惨状を知ってからは態度が微妙に変わります。
《核兵器の国際的管理呼びかけ》
自らの発明で信じがたい人命を失い、トップ科学者ゆえに投下後の放射能被ばくも予見できたオッペンハイマーがふさぎ込んでいたり、後悔とも取れるような発言をしたのを多くの人が証言しています。10月には研究所を去りました。 戦後すぐに主張を始めたのが「核兵器の国際管理」です。連合国勝利でまだ沸き返っている中、いち早くソ連が原爆を開発し、他にも拡散するのを予見して、そうなる前に核管理の枠組みを作ってしまうのが得策という発想です。果たして49年に核実験を成功させ、以後米ソの冷戦が激化していきます。 オッペンハイマーらがイメージしていた国際管理とは多少異なった形ながら、1968年には核兵器拡散防止条約(NPT)が制定され、今日まで不完全とはいえ、核不拡散の唯一の防波堤となっています。 また彼は原爆よりさらに大きな威力がある水素爆弾開発にも反対しました。原爆以上の惨禍を出現させないためであるとか、アメリカの水爆実験成功が却ってソ連の開発を促進する契機になるからとか、反対の理由は諸説あります。原子力委員会に所属していた彼の発言は推進派も一目置かざるを得ませんでした。 いわば「邪魔者」になってきたオッペンハイマーを襲うのが「赤狩り」です。共和党のマッカーシー上院議員を中心とする政府内に巣くう共産主義者のあぶり出しに彼も引っかかってしまうのです。