「人間、何してんだよ!」とツッコミつつ、人間の本質を深掘りするノンフィクション―インベカヲリ☆『未整理な人類』
謎の犯罪から、路上の怪文書まで。なぜ人は理屈で説明のつかない行動に夢中になるのか。『未整理な人類』は、「事実は小説より奇なり」を地でいく物事にフォーカスした、異色ノンフィクションだ。とことん笑えるのに、人間とは何か?について考えさせられる本書。その「まえがき」を読者にお届けしよう。 ◇人間は黙ることができない 芸術と犯罪と症状は似ている。どれも表現であり言語だからだ。随分前からそんなことを考えていた。 私は写真家だが、作品づくりは表現行為そのものだ。その表現したい欲求がどこから来るかと言えば、抑圧された怒りの発露だと思う。特に初期衝動はそうで、言いたいことが誰にも伝わらない、考えていることが分かってもらえない、この世界はなんだかおかしい、そうした違和感が創作に向かわせる。物をつくり、かたちにすることで、これでやっと私の考えていることが伝わるという気持ちになれるのだ。 犯罪も同じではないか。窃盗であれ器物破損であれ殺人であれ出発点はどれも一緒で、問題行動の裏には必ず「言いたいこと」がある。例えば、私が以前取材した東海道新幹線無差別殺傷事件の小島一朗は、端的に言えば「お母さんお父さん、私を愛して」という気持ちが、ねじれて歪んで無差別殺傷に繋がっていた。家族には何を言っても手応えが感じられないから、事件という形で具現化したのだ。 では、病気の症状はどうか。メンタルであれフィジカルであれ、頭痛、腰痛、怪我をしやすい、事故に遭いやすい、に至るまで、言いたいことを抑えているから体に出て支障をきたすと言われている。「もう嫌だ」と言うことができないから、物理的に自由に扱えない体になって訴えるのだ。自分が本当に思っていることを言葉にすれば、症状が消えるとさえ言われている。人間の体は、感情を抑え込むとバランスを崩すように出来ているのだろう。 音声言語を主とする人間社会は、弱い者の声が、強い者に封じ込められてしまいがちだ。会話を諦めたとき、人は表現行為を始めるのだろう。しかし、それは無意識的に行われるので解読が難しく、時に本人すらも分かっていない。逆にだからこそ、表現行為は人間の心をありありと示す。人間は黙ることのできない生き物なのだ。 さて、そんな話から入ると、さも本書が芸術と犯罪と症状をテーマにしたものだと思われるかもしれないが、そういうわけではない。世の中には、綺麗にまとめられることなど一つもない。混沌として難解で、言葉で表すことが難しいもので溢れている。 そもそも、なぜ私が写真を始めたのかだって、本当のところは説明がつかない。世の中には、私より写真が上手い人も、文章が上手い人もたくさんいるが、人間は上手いからやるという生き物でもないようだ。私より感情や怒りを抑圧している人もたくさんいるはずだが、そういう人が皆、創作活動を始めるとは限らない。あるいは人によっては、犯罪や症状に向かうだろう。つまり、何をやるかは衝動のあるなしですべて決まり、しかも、どの類の衝動になるかは、自分では決められないのである。 ◇ 芸術と犯罪の境界線 表現行為というものは、なんだかわからないけど、やらないと自分の人生が成立しない「何か」だと思う。例えば、人に見せることを前提としない表現であれば、私は日常的に行っている。考えていることは全部ノートに書いてしまうし、思春期の頃は、それはたびたび自動書記になった。ペンを持って紙の上に手を置くと、勝手に動くので、それを読んで自分が今何を考えているのかを知ることができるのだ。私は自分と似たようなことをやっている人間を見たことがないので、誰かに影響されたわけではなく突然やるようになったのだろう。そのようなトランス体験は一時的なものだったが、書くという行為だけなら今も止まらず続いている。 なんだかよくわからない行動にこそ、その人のパーソナリティが表れる。そして、その行為はときに犯罪になってしまう。 二〇一〇年、横浜市の青葉区役所敷地内にある郵便ポストに、高野豆腐二丁を入れたとして、五一歳の女が逮捕された。以前より同様の事件が相次いでおり、張り込んでいた郵便局員によって取り押さえられたという。 この事件のポイントは、やはり高野豆腐だ。実際には、高野豆腐のほかにも空の弁当箱や割り箸などのゴミも入れていたようだが、そんなつまらない情報は私の耳がスルーした。ここは高野豆腐一択でいって欲しい。薄茶色で、平たく、乾燥した高野豆腐は、なるほど確かにハガキっぽい。これを郵便ポストに入れるという行為に、どこか詩的なものを感じてしまう。 芸術の世界には、「ハプニング」と呼ばれるジャンルがある。一九五〇年代から六〇年代を中心に展開された前衛芸術運動で、一回性を重視した演劇的出来事というような説明をされる。日本では芸術家集団、ハイレッド・センターなどが有名で、一九六四年に行われた「首都圏清掃整理促進運動」では、白衣姿で銀座の歩道を雑巾がけするなどのパフォーマンスが行われた。他にも、前衛芸術家のダダカンは、一九七〇年の大阪万博に現れ、会場を全裸で走りまわったが、これも「ハプニング」だ。 この説明で伝わったか分からないが、犯罪との違いは、芸術作品の場合、そこにはコンセプトが存在するということである。 しかし、私には高野豆腐を毎日ポストに入れる行為も、それに準ずるものに見えてしまう。犯人は「郵便局を困らせたかった」と供述しており、無理やりこじつけるならこれがコンセプトに当たるだろう。 郵便局を困らせたいほどの怒りを抱いているなら、それを言葉で伝えれば済む話だ。しかし、人は正論だけで生きているわけではない。やはり表現行為、この場合は問題行動になるからこそ「何か」を感じてしまうのだ。 ◇ 神様、家電を使う もっとも、表現行為が犯罪になるのは、法に触れた場合のみである。通常はそうはならない。 ある女性は、統合失調症の母親のもとで育った。その母親は「タヌキが憑依した」と言って、道路の真ん中でポンポコ叫びながらお腹を叩き出したり、またあるときは、除霊のために部屋のあちこちにキラキラのシールを貼ったりしていたそうだ。 近年は、食卓の誰もいない席に、毎日食事の用意をしているらしく、彼女が久しぶりに実家へ帰省したときは、誰もいない食卓で、一〇人分のコーヒーを淹れお茶会をしている姿を目撃したという。 この話を聞いて、私は「あえのこと」を思い出した。 ユネスコ無形文化遺産にも登録された石川県奥能登地方の民俗行事「あえのこと」は、一年の収穫を感謝し、五穀豊穣を祈る農耕儀礼だ。毎年一二月五日になると、農家の主人が、田んぼにいる神様を呼んで家に招き入れ、食事を提供し、お風呂に入れ、布団で寝かせる。翌年二月九日には、ふたたび神様を田んぼに返す。 私はこの行事の様子をテレビで見たことがあるが、誰もいない空間に向かってずっと話しかけている主人の姿は、なかなか衝撃的だった。神様が現代の家電に適応できるよう配慮し、お風呂に案内すると、「寒かったらこのボタンを押して調節してください」などと追い炊きの説明までしている。こうして農家の人々は、一人芝居をして神様をもてなしているのである。 この統合失調症のお母さんの場合、おそらく相手の姿が見えているのだろう。一〇人分のコーヒーを淹れることも、毎日プラス一人分の食事をつくることも大変な労力だ。 神事と症状は、実はそれほど離れていない、人間の精神を象徴する何かなのかもしれない。 ◇ 珍事件 生きるための営みにも、表現行為は入り混じる。 例えば、食。「食べる」という行為は、問答無用に人の心を満たす。もしも「美味しい」という感覚がなければ、食事という行為は苦痛でしかなくなってしまうだろう。私はこれを、新型コロナウイルスに感染して、しばらく味覚障害に陥ったときに感じた。美味しいからこそ、食事で人をもてなしたり、美味しいものを食べるために頑張ってしまう。「美味しい」は、人の行動を駆り立てる。 しかし、それが執着になると、犯罪へとまっしぐらになってしまう。 二〇一七年、東京都武蔵野市で、税理士事務所のドアをバールでブチ破って侵入し、冷蔵庫のアイスクリームを食べたとして、五一歳の男が逮捕された。男は、二〇一三年から東京都と石川県の二カ所で、同種の事務所荒らしを繰り返しており、犯行現場にはチョコレートやプリンやジュースといった甘いものが食べ散らかされた跡が残されていた。警察は、現場の状況から「犯人は甘党」とあたりをつけ、捜査を続けていたという。 私は二〇一七年に、この裁判を立川簡易裁判所で傍聴している。冒頭陳述によると事件当日、税理士事務所の職員が出勤すると、窓枠が破られ、ハシゴがかけられており、引き出しに入っていたものが部屋に散乱していたという。机の上には、破られたアイスクリームの包装紙が放置され、窓を割った際に怪我をしたのか、真新しい血液が付着していた。これが被告人の血液と一致。盗み食いされたアイスクリームは、二個で一一〇〇円だった。 被告人は、都内の大学を卒業後、出版社に勤務していたが、ここ十数年は無職。石川県で実父と暮らしていた。二犯の前科があり、住居侵入、建造物侵入で懲役一年の判決を受けている。 その日の法廷に、被告人は車椅子で現れた。なぜか言葉もほとんど発することができず、絵に描いたような心神耗弱状態である。なぜケーキ屋さんではなく会社事務所を狙うのか? なぜ税理士事務所の冷蔵庫に高級アイスクリームが入っていることを知っていたのか? なぜリスクを冒してまでその場で食い散らかすのか? そうした疑問には何一つ答えられない状況だったので、酷くガッカリしたのを覚えている。 のちに、『暴走老人・犯罪劇場』(高橋ユキ)を読んだとき、車椅子は殆ど偽装、弁護人は心神耗弱状態で責任能力について争うと主張するのがお約束と書いてあり愕然とした。冷静になって考えてみれば、バールでドアをブチ破る体力や、食欲旺盛さは、元気いっぱいの証である。 「食べる」と言えば、二〇二二年にも、サンマの切り身を盗み食いしたとして、二一歳の男性巡査が書類送検されている。警察署の留置場で配るお弁当から、約一カ月半にわたってサンマだけを抜いており、「小腹がすいたので食べた」と供述しているという。彼はその後、依願退職したらしい。 警察官という高い倫理観が求められる職務に就きながら、なぜ盗み食いをしてしまうのだろう。こうした軽犯罪にこそ人類の謎が隠されている気がしてならないが、この手の事件はたいがい不起訴なので、真相は宙に浮いたままになってしまうのが残念なところだ。 ◇「どうにも止まらない」私たち 私は高校時代より「趣味は人間観察です」などと言って、人の目をじーっと見る癖があった。その上、コミュニケーションは苦手だから、無言で人の輪を外からじっと観察していたので、たいそう気持ち悪がられた。それは社会人になってからも変わらず、あまりにも人の目をじっと見て離さないので、ついには「それ本当に止めた方がいいよ」と忠告されるほどだった。そんな私が写真を始めて人との交流が増えていくと、それなりに名の知れた漫画家や評論家たちの中に、人と目を合わせないタイプの人がわりといるということに気が付いた。自信満々に喋っているのに、視線だけはどこか違うほうを向いているのだ。私は、それをクールだと感じ、すぐに真似をするようになった。しかし、発言に自信のない人間が目を逸らして話すと、弱々しく見えるだけだ。私はクールにできなかった。結局、いろいろ試すうちに、目を見たり逸らしたりとバランスをとりながら話すところで落ち着いた。すなわち、「普通の人」になったのである。こうして人は、人になっていくのだ。私は、社会に放り込まれ、文明化されたのである。 と簡単に書いたが、人間はそんなに生易しいものではない。倫理観も道徳心も常識も、すべて時代がつくる宗教で、しかもそれらはコロコロ変わる。ちょっと俯瞰して見れば、おいおい人間、何してんだよ! と思う不思議な行動がたくさんある。 一体、人間とはなんなのか。そもそも、地球上にいる動物の中で、なぜ人間だけが知能が優れているのだろう? 神様は何を考えて、人間にだけ他の動物を支配するだけの力を与えたのだろう? 環境破壊をして地球の存続を危うくするような願望と能力を、なぜ与えたのだろう? 結局は、他人のことも自分のことも、突き詰めていくと何もわからない。人間は一番のブラックボックスで、未整理なことだらけだ。となると、結局は「止めたくても止められないもの」「なぜか分からないけど、そうなってしまったもの」「体が勝手に動いたもの」にこそ、人間の本質が現れるのではないか。そうしたものを紐解いていったら、人間とは何なのかが少しは見えてくるのではないか。 本書は、そんな人類の未整理な行動を突っついて、綺麗にまとめることもなく、放り投げてみようという試みである。 [書き手] インベカヲリ☆ 1980年、東京都生まれ。写真家、ノンフィクション作家。短大卒業後、独学で写真を始める。編集プロダクション、映像制作会社勤務等を経て2006年よりフリーとして活動。2018年第43回伊奈信男賞を受賞、2019年日本写真協会新人賞受賞。写真集に『やっぱ月帰るわ、私。』、『理想の猫じゃない』(いずれも赤々舎)ほか。フォトエッセイ集に『なぜ名前に☆があるのか?』(読書人)がある。著書に『家族不適応殺 新幹線無差別殺傷犯、小島一朗の実像』(KADOKAWA)、『「死刑になりたくて、他人を殺しました」無差別殺傷犯の論理』(イースト・プレス)、『私の顔は誰も知らない』(人々舎)、『伴走者は落ち着けない 精神科医斎藤学と治っても通いたい患者たち』(ライフサイエンス出版)ほか。 [書籍情報]『未整理な人類』 著者:インベカヲリ☆ / 出版社:生きのびるブックス / 発売日:2024年09月27日 / ISBN:4910790195
八木書店 新刊取次部
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