【ラグリパWest】抽選は引き分けである。
高校ラグビーに「抽選」がある。前後半30分ずつを戦い、同点の場合は主催者立ち合いのもとに封筒を引く。 <次戦の出場権あり> 中の紙片にそう書かれていれば、次のステージに上がることができる。 順番がある。まずトライ数、続いてペナルティー・トライ数、最後はトライ後のゴールキック数を比較する。すべて同じ場合は抽選になる。決勝のみは両校優勝となる。 大切なのは、抽選の段階で、試合は引き分けとして決着がついている、ということである。本来、「抽選勝ち」、「抽選負け」という言葉は存在しない。便宜上、わかりやすくするためにつけられた。 今回、104回目の全国大会でも引き分け抽選になった試合があった。12月30日、高鍋(宮崎)と大分東明の2回戦である。スコアは26-26。ノーシードの高鍋はBシードの大分東明に最大19点差を追いついた。 抽選の結果、3回戦進出は大分東明が得た。高鍋を率いるのはOB監督の檜室秀幸だ。 「残念ですけど、仕方ありません」 50歳。保健・体育教員でもある。 檜室は山中伸弥に似る。山中はノーベル医学賞を得たラグビー経験者だ。檜室は闘争を辞さない勝負師の雰囲気をも漂わせる。 この2024年度のチームを振り返る。 「何年もかかって、シード校に匹敵するチームを作ってきたのですが…」 檜室はこの引き分けを除き、監督として10回のこの大会の出場がある。それまでは2回戦までに負けていた。 高鍋は高校日本代表候補のHO高山成王(せいおう)を軸にまとまりがあった。そのジャージーは濃緑と白の段柄。全国大会に出れば、そこに細いオレンジが加わる。 高校ラグビーにおける抽選決着の歴史は古い。戦前の16回大会(1934年)では、2つの引き分け試合があった。その時は抽選で次戦出場を決めている。その後、同点の場合、反則数の多寡で決めた時期もあった。 68回大会(1988年度)から同点引き分けの場合、トライ数、その後のゴールキック数によって次戦出場を決め、最終的に抽選とする現行ルールに近い形に改められる。 その4大会前、64回大会では2回戦であった大阪勢対決が引き分けた。淀川工(現・淀川工科)と阪南は10-10。3回戦に出場したのは淀川工だった。この時、トライ数は淀川工の1に対し、阪南は2。現行ルールならチームは入れ違っている。 淀川工の戦績はユニークだ。これまで全国大会には13回出場して29戦したが、7回の引き分け試合がある。岡本博雄は選手として2回、監督として4回、抽選を経験している。 CTBだった45回大会(1966年)は2回戦で秋田工に8-8、準決勝で優勝する盛岡工に3-3。岡本はこの準決勝、ケガで欠場した。母校の監督として臨んだ68回大会は2回戦で熊谷工に12-12と引き分ける。 この68回大会、淀川工は準決勝で茗溪学園に7-32で敗れた。大阪工大高(現・常翔学園)との決勝戦は昭和天皇の崩御で中止になった。淀川工にとってはこの2回の準決勝進出が全国最高位である。 その岡本は生前、抽選の代わりに延長戦を導入し、決着をつけることに否定的だった。安全性の観点からである。 「高校生が前後半30分をやって、たとえば10分間の延長戦をやるのは体力的にかなりきつい。それをすればケガ人が出る可能性がある。抽選は仕方ないと思うよ」 ラグビーは全力で体をぶつけ、そこに持久力や速さが要求される。競技特性としての激しさがある。両チーム30人という大人数でもやる。経験から来る岡本の言葉は重い。 延長戦は今でも導入されていない。 抽選の結果、3回戦に進めなかった高鍋は、翌日の大みそかの朝、大阪からバス2台に分乗し、12時間かけて宮崎に帰って行った。 その長い道中、檜室からメールが入る。抽選に関して、ずっと昔、ラグビーの先輩から教えられたことが書かれてあった。 <ラグビーの試合は定期戦の意味合いが強く、そもそも勝ち負けは二義的なものである。持っている力を出し切りさえすれば、勝とうが負けようが大した問題ではない> ラグビーは定期戦を軸に始まった。基本的には年に1回の対戦がすべてだった。お互い最低限15ずつの人数をそろえて、その対戦そのものを讃える。 ただ、時代は大きく変わる。アマチュア・スポーツの権化だったラグビーも30年ほど前から正式にプロが認められる。高校生ですら、勝ち負けで進学先が大きく変わってくる。悠長なことは言っていられなくなった。 その最前線に檜室は立っている。教え子たちを次戦に引き上げられなかった悔しさや悲しさはある。同時にラグビーの初期の崇高な部分を思い出す機会も持った。折り合いのつけ方はなかなか難しいが、檜室は指導者としての厚みを増したことは間違いない。 何より、確実なのは、高鍋は負けずに花園ラグビー場を去った、ということである。32回出場の全国大会の通算成績は30勝31敗1分となった。 (文:鎮 勝也)