123便に乗り込み帰らぬ人となった「坂本九」 「最後の曲」は10代にも歌い継がれる「名曲」となった――
1984年、僕は東芝EMIを退社し、新しいレコード会社「ファンハウス」を創業した。しばらくして、坂本九さんが専属契約を終了させファンハウスに移籍してくれた。東芝EMIで育った坂本九さんにとって、どれほど勇気のいる決断だったことだろうか。坂本九とファンハウスは専属アーティスト契約を締結、移籍第1弾シングルの制作準備に入った。 その頃になるともう企画にあれこれ迷うことはなくなっていた。九ちゃんはこれまで通りエンターテイナーに徹すれば良いのだ。九ちゃんは大好きなペリー・コモの「アンド・アイ・ラヴ・ユー・ソー」や「フォー・ザ・グッド・タイムズ」といった曲名をあげて、いつまでも歌える大人のラブソングをつくりたいと言った。いっときの熱い恋愛感情や熱情とは違う、もっと深い人生の愛の歌を歌いたいと語った。作詞を荒木とよひさ、作曲は三木たかし、編曲を川口真に依頼した。 荒木先生は九ちゃんの妻の柏木由紀子さんに宛てたラブレターを代筆する気持ちで「心の瞳」を書き上げてくれた。坂本九の再出発にふさわしい歌ができ上がった。ディレクターは元トワ・エ・モワの芥川澄夫君だ。大先輩の坂本九さんを担当できるほどの制作者に成長していた。 1985年3月、「心の瞳」のオケの録音が終わると仮歌を吹き込み試聴用のカセットテープを抱えて九ちゃんは自宅に飛んで帰った。 「ユッコ! 今度の新曲すごいよ、これは僕たちの歌だよ。ユッコが聴いたら泣いちゃうよ!」 11歳だった長女花子さんは僕にこう尋ねてくれた。 「いつか、パパの歌のピアノ伴奏をしたいので、練習用にピアノ譜のコピーをいただけますか」
「心の瞳」は5月22日に発売された。しかし、テレビで一度も歌われないまま8月12日、坂本九は日本航空123便に乗り込み、帰らぬ人となった。43歳の若さだった。 僕はその晩、柿の木坂の自宅へ駆けつけ曲直瀬道枝さん(マナセプロ2代目社長)と取り巻くマスコミの対応に追われた。翌々日から群馬県藤岡市に設けられた遺体の検視兼安置所に詰めていたが、16日になって九ちゃんがいつも身につけていた笠間稲荷のペンダントが発見された。 9月9日、葬儀は芝増上寺で行われた。曲直瀬道枝社長のもと、日本女子大を卒業したばかりの渡辺美佐さんの長女、渡辺ミキさんが司令塔となった。黒柳徹子さんと永六輔さんの弔辞に続いて、「心の瞳」を歌っている九ちゃんの声が、テープで流れた。お父さんの歌に合わせて、見事なピアノを弾いていたのは、学校の制服姿の花子さんだった。 事故当日8月12日の朝、自宅を出た九ちゃんは、NHKの505スタジオで、FMラジオ番組の公開録音の収録をした。これが九ちゃんの生前最後の収録番組となった。それから約半月後の9月1日、NHKはこの番組を放送した。 「心から坂本九さんのご冥福を祈りながら、この番組をお送りいたします」というアナウンサーの言葉に続いて、いつもの明るいあの声が聞こえてきた。 「こんにちは! 坂本九です」 1時間番組の最後の方で、九ちゃんはピアニスト羽田健太郎さんの伴奏で「心の瞳」を歌った。