自己顕示欲のない天才――和算家・関孝和(1640?~1708)
膨大な研究成果
孝和は、出版こそしていないが、膨大な著述を残している。興味深いのは、天文暦学を題材にした著述をいくつか残している点である。延宝8年(1680)の『授時発明』、天和元年(1681)の『授時暦経立成』、貞享3年(1686)の『関訂書』などがそれにあたる。観測記録である『日景実測』や『二十四気昼夜刻数』も孝和の著述らしく、実際に日影の長さから1年(太陽年)の長さも知ろうとしていたようだ。 この頃は、ちょうど渋川春海が改暦に取り組んでいた時代で、孝和も同じく改暦を目的とした天文暦学の研究をしていたという説があった。春海に改暦を指示したのが保科正之なら、孝和も藩主の徳川綱重から密命を帯びていたのではないかという、とても興味深い話である。 筆者もかつてこの説にインスピレーションを得て、『算聖伝』という小説を書いたことがあるが、現在の最新研究では、彼の関心はやはり数学であり、翦管術(せんかんじゅつ)の研究のために天文暦学を取り上げていたと考えられている。翦管術は天文暦学に必要な剰余方程式の解法で、『楊輝算法』の中にも現れている用語である。 貞享の改暦がなされたころは、甲府藩は不作続きで一揆が続発していたし、藩主も綱重から綱豊へ代替わりした時期で改暦どころではなかった。孝和自身は、『発微算法』出版後に弟子にした建部兄弟の指導と、検地役人としての御用に励んでおり、藩命を背負って改暦に挑んでいたとは考えにくい。 ただし、孝和の著述が最も集中したのは、この同じ時期、天和3年(1683)から貞享3年(1686)までの3年間だった。 天和3年(1683)の著述としては、『拾遺諸約之法・翦管術解』、『方陣之法』、『円攅之法(えんさんのほう)』、『角法並演段図』、そして数学遊戯「継子立(ままこだて)」と「目付字(めつけじ)」それぞれの理論化である『算脱之法』と『験符之法』などがある。もっとも特筆すべきは『解伏題之法』で、ライプニッツの個人ノートを除けば、世界で最も早い行列式の理論を述べた本であった。 貞享2年(1685)の著述には、ホーナーの方法と同じ数字係数方程式の解法を示した『解隠題之法』や、『開方翻変之法(かいほうほんぺんのほう)』、『題術弁議之法』、『病題明致之法』などがある。翌3年には、『関訂書』、『天文大成諺解(てんもんたいせいげんかい)』がある。『解見題之法』も貞享年間だと推定されている。数学者として、もっとも脂が乗っていた時期であった。 元禄年間に入ると、孝和の数学研究にはあまり大きな動きが見られなくなる。元禄年間も後半になると、後継ぎがいなかった孝和は真剣に養子を取ることを考えはじめ、実弟永行の子だった新七郎を養子に迎える。新七郎は数学とは無関係だったから、数学の後継者として新七郎を選んだわけではない。あくまで武士として関家の存続を願ったのである。 宝永3年(1706)、新七郎を将軍綱吉に拝謁させると、その2年後に孝和はおよそ70年弱の生涯を閉じた。 それから200年余り後、幕末から明治維新にかけて、日本は近代化を進めるため西洋数学を受け入れたが、それができたのは関流が数学として真に優れたものだったからだ。 その後日本は、世界的な数学者を輩出してきたが、ある意味、日本の数学は孝和を中心に発展を遂げてきたとも言える。現在も日本数学会における最高の賞が「関孝和賞」とされているのももっともな話である。 ◎鳴海風(なるみ・ふう)1953年、新潟県生まれ。東北大学大学院機械工学専攻修了(工学修士)後、株式会社デンソーに勤務。愛知工業大学大学院で博士(経営情報科学)、名古屋商科大学大学院でMBAを取得。1992年『円周率を計算した男』で第16回歴史文学賞。2006年日本数学会出版賞。『円周率の謎を追う 江戸の天才数学者・関孝和の挑戦』(くもん出版)が第63回青少年読書感想文全国コンクール中学校の部課題図書。主な著書に『算聖伝 関孝和の生涯』(新人物往来社)、『江戸の天才数学者』(新潮選書)、『美しき魔方陣』(小学館)などがある。
鳴海風