自己顕示欲のない天才――和算家・関孝和(1640?~1708)
自己顕示欲のない天才
和算の歴史の中で、関孝和の数学は明らかに次元が異なっている。鎖国時代に、どのような研究プロセスを経て、行列式やベルヌーイ数の発見に到達し得たのだろうか。これは数学史研究の重要なテーマであり、今でも多くの数学者がこの謎に挑んでいる。 しかし、孝和がいつ数学と出会い、どのようにそれを進化させていったのかは、まだほとんどわかっていない。そもそも関孝和のデビュー作である『発微算法(はつびさんぽう)』からして、出版までの経緯は謎に包まれている。同時代の和算家からすれば、まさにある日突然彗星のように出現した天才に見えたはずだ。 『発微算法』の出版は、延宝2年(1674)のことである。孝和が発明した、未知数を含む係数の方程式を解く方法・傍書法(ぼうしょほう)が含まれていた。それまで最先端の数学とされてきた中国の天元術を超えて、和算を大きく進歩させた画期的な数学書である。 日本にはじめて天元術を伝えた本は『算学啓蒙(さんがくけいもう)』である。元の朱世傑(しゅせいけつ)が1299年に出版した本で、朝鮮を経て日本にもたらされた。万治元年(1658)に、訓点をつけた『新編算学啓蒙』として復刻されたが、当時の和算家たちの中には、理解できる者はほとんどいなかった。 天元術を理解して最初に本にしたのは、大坂の鳥屋町に住む沢口一之で、実に13年後のことである。一之は、『改算記』と『算法根源記』の遺題を天元術で解いて『古今算法記』を出版したのだが、その巻末には通常の天元術を使っても解けない十五問の遺題(いだい)がつけられていた。 この未解決の難題を、鮮やかに解いてみせたのが、孝和の『発微算法』であった。出版されたのは『古今算法記』から3年後の延宝2年(1674)であるが、どうやら孝和は『古今算法記』の遺題を見た瞬間に、その解法もわかっていたようである。いつでも解法を出版できる状態だったが、当時甲府藩では深刻な不作から一揆が発生し、それが江戸桜田の屋敷への門訴にまで発展していて、御用第一の孝和には数学書を出版するのは憚られたのであろう。 それでも、家老らの免職処分という形で甲府藩の一連の騒動が決着してから、わずか2ヶ月後に『発微算法』は出版された。 『発微算法』の序文には、そういった背景や孝和の気持が書かれていた。そこでは「世の中で数学が流行していて、門を立て、書を著すものは枚挙にいとまがない」とあり、孝和は続々と出版される数学書を読んでいたことがわかる。そして、『古今算法記』の難問に答える数学書が出ていないことも知っていた。「自分は回答できたが公開を遠慮していた」と書いている。しかし、「弟子たちが皆、学問を修めていない人のために伝えるべきだというので、ようやく出版することにした」という。 弟子が何人いたかはわからないが、三瀧四郎右衛門と三俣八左衛門という2人が、『発微算法』の校正をしたことが書かれている。この2人は、出版を勧めた弟子たちの中心だったはずだ。ところが、2人とも素性も数学上の業績もはっきりしない。 中国の数学書にもない画期的な傍書法を発明し、誰も回答できない『古今算法記』の遺題を解いたわけだから、多少なりとも気負いが見られてもおかしくない。しかし、「弟子たちが勧めるので出版することにした」というほど、孝和は自己顕示欲がない男だった。 実際、この『発微算法』が孝和の生涯で唯一の出版物となり、この本以降、彼が自分の名前で出版したものは一冊もない。独創的な研究成果を多く残したにもかかわらず、である。孝和にとって、数学の研究はあくまで楽しみであり、他人に自慢するようなものではなかった。