自己顕示欲のない天才――和算家・関孝和(1640?~1708)
鎖国下の江戸時代、日本独自の数学文化「和算」が華ひらく。天才和算家・関孝和のベルヌーイ数発見のような、世界にさきがけた業績がなぜ生み出されたのか。『江戸の天才数学者:世界を驚かせた和算家たち』(鳴海風著/新潮選書)から一部を抜粋・再編集して江戸流イノベーションの謎に迫る。 ***
素性不明の大数学者
日本独自の和算文化を、数学としても世界に通用するレベルまで押し上げた最大の功労者は、やはり関孝和(せきたかかず)だろう。 没後「算聖(さんせい)」と称えられ、その名を冠した「関流」は、和算最大の流派として、明治初期にいたるまで日本の数学発展の中心に位置していた。そして、没後300年以上を経た今日でも、孝和の数学は世界の人々を魅了し、多くの数学者の研究対象となっている。 確かに、孝和の数学上の業績は抜きん出ている。鎖国政策が徹底されていた江戸時代に、中国の数学を出発点としながらもそこから飛躍し、独自の方法論で、部分的には同時代の西洋数学に匹敵するレベルにまで到達した。世界に先駆けて行列式やベルヌーイ数を発見するなど、膨大な研究成果を残している。 ところが、孝和の人生そのものについては不明な点が多く、まさに謎に包まれていると言ってもいいのだ。 そもそも、孝和がいつどこで生まれたかすらもはっきりしない。幕臣・内山永明の次男として誕生したが、出生年は寛永17年(1640)前後と推定されているだけで、特定されるにいたっていない。父永明が幕臣に取り立てられ、上野国藤岡(現群馬県藤岡市)から江戸牛込(現東京都新宿区)に移り住んだのは寛永16年であるから、出生年が特定されれば、出生地も確定する可能性が高い。しかし、もし江戸という結論になった場合はひと騒動だろう。なにしろ、「和算の大家、関孝和」として上毛かるたにも含まれている孝和は、群馬県にとって大切な郷土の偉人の一人なのである。 さらに、孝和が甲府藩の関家に養子に入った年も不明であるし、そもそも養父とされる人物の名前が甲府藩の記録の中に見つからないのである。 和算界のスーパースターともいうべき孝和の、そんな基本的なプロフィールすらわかっていないのは、不思議な気もする。いや、むしろ、わからない部分が多いからこそ、孝和は人々を惹きつけてやまないのかもしれない。