元アメリカ任天堂社長と岩田聡氏との知られざる友情 病室で話した任天堂の将来を左右するゲーム機
レジー・フィサメィ氏は、ハイチ系移民というハンディキャップを跳ね返し、アメリカ任天堂社長となり、ゲーム業界の歴史において最も強力な人物の1人となった。 5月22日、彼の35年間の人生とビジネス哲学を描いた『崖っぷちだったアメリカ任天堂を復活させた男』が発売となった。本書より、故岩田聡氏との秘話を一部抜粋のうえ、再構成してお届けする。 【写真】ハイチ移民の子として生まれたアメリカ任天堂の元社長兼COOのレジー・フィサメィが35年のキャリアで学んだ教訓と哲学とは? これまでで最も辛い旅だった。半年間で3度目の旅だったからではない。台風の接近によって、旅の間ずっと飛行機が激しく揺れていたからでもない。
最も辛い旅になった理由は、私の上司でありメンターであり、友人であった任天堂のグローバル・プレジデント、岩田聡氏の葬儀のために京都に行くことになったからだ。 実際、飛行機に乗っていて最も辛かったのは、亡くなった友人に会いに行くのだとわかっていたことだ。 こうした悲しい旅に心の準備などまったくできていない。せいぜい葬儀の慣習を学んでおくくらいだ。遺骨の見えるところに行き、香をつまんで額に掲げるやり方とか。
しかも私は周囲から好奇の目で見られることだろう。他に肌の黒いアメリカ人がいるとは思えないし、NOAの社長として、私は常に注目を集めていた。 ■岩田氏からの突然の呼び出し 最後に岩田氏に会ったのは、わずか数カ月前の2015年3月だった。彼から日本に戻ってきてくれというメールが届いた。ちょうど私の誕生日間近の頃だ。どうも何かおかしい。私は1月に日本に行ったばかりだ。 例年通りなら1週間の滞在を年2回行い、その間に会社の経営陣とビジネス戦略と次の製品について話し合う。すぐに呼び戻されるのは、まったく異例のことだった。
この3月の予期せぬ旅について、私は岩田氏にもう少し詳しい理由を聞いたが、彼の返事は曖昧だった。彼が私に訪ねてきてほしいと言った日は、妻のステイシーと祝う私の誕生日とぶつかってしまうのだが、それを言ったところで聞く耳を持たないだろう。3日間だけ特別に京都に来てほしいと言って聞かなかった。 午前8時半に来てほしいというのも変だ。彼はいつも9時に仕事を始めるのだが、それより前に会うとなると、任天堂株式会社の本社に入るのは少し難しい。ガラスとコンクリートの外面に覆われ、大理石の入り口がある本社ビルは、冷ややかで無機質に感じられる。