ブルース・スプリングスティーンが語る『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』の真実【1984年の秘蔵インタビュー】
ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen)の日本独自企画盤『ボーン・イン・ザ・U.S.A.(40周年記念ジャパン・エディション)』が9月25日に発売されたことを記念して、40年前の1984年に掲載された米ローリングストーン誌の16000字カバーストーリーを前後編でお届けする。まずは前編、ロック史上屈指の名盤を生み出した当時35歳のボスは何を語ったのか? 【写真ギャラリー】ブルース・スプリングスティーン、80~90年代の秘蔵プライベートフォト * シアトルの方が商業的に成功しやすい都市と言えるが、ブルース・スプリングスティーンにとってはタコマの方が好みの街だった。『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』ツアーの第2ラウンドに入ったスプリングスティーンは、Eストリート・バンドのメンバーと共にバンクーバーから空路タコマ入りしたが、全員が体調を崩してしまった。タコマでは製材所やその他の工場から排出される煙や有害な汚染物質による、地元で「タコマの香り」と称される悪臭が街中を漂い、人々の肺を害している。バンドのメンバーやスタッフたちは具合が悪くなり、スプリングスティーン自身も吐き気を催した。そんな状況にもかかわらず彼らは、2万5000席がソールドアウトになっていたタコマ・ドームでのコンサート初日を強行した。スプリングスティーンは、強靭な精神と身体の持ち主だ。 タコマから50kmほど離れた、空気も雰囲気も格段に良いシアトルにあるザ・キングドームという選択肢もあったはずだ。ただ、音響は狭めのタコマ・ドームの方が良い。それに何と言っても、最近では上流階級の仲間入りをしたとはいえ、スプリングスティーンはさまざまな苦悩を抱える労働者階級に寄り添う姿勢を貫いている。そういう意味で、不快な環境のタコマは、スプリングスティーンには申し分ない会場だった。 彼は本当に体調が悪く、青白い顔でステージに上がった。4時間後にステージを降りる時には、完全に力尽きたほどだった。しかし彼は、絶対に弱みを表に出す人間ではなかった。ステージは明るくノリの良い「Born in the U.S.A.」で口火を切り、傑作『ネブラスカ』からも数曲披露した。そして最後までオーディエンスを魅了し続けた。ツアーを通じてスプリングスティーンは「無力感」や、ガールフレンドや政府に対する「盲目的な信頼」などについて、ステージの上から語りかけた。「今は1984年。誰もが何かを求めているようだ」と彼は、熱狂するオーディエンスに語る。タコマでは、地域活動団体のワシントン・フェア・シェアの活動を称えた上で、印象的な楽曲「My Hometown」のイントロに入った。同団体は当時、違法なゴミ処理場の撤廃に賛同し、「市民の知る権利」の法案に対してワシントン州知事のジョン・スペルマンが発動した拒否権を覆すための呼びかけを行っていた。法案が通れば地元企業は、職場で触れる可能性のある有害な化学物質についての全情報を、従業員に公開する義務が生じる。「企業の利益より人々の安全が優先され、企業よりも地元コミュニティが優先されるべき、というのがこの団体のポリシーだ」とスプリングスティーンは説明した。さらに、次に歌う「My Hometown」の歌詞を引用して「ここは“君たち”の地元なんだからな」と、人々に行動を促した。 確かにスプリングスティーンは、ロック界の世界的なスターかもしれない。しかし1984年のスプリングスティーンは、アルバムの宣伝に躍起になっているありきたりのロックスターの殻を破り、もっと大きな存在になった。彼のカリスマ性は、思想的に真逆の存在である共和党のロナルド・レーガンにも政治利用されるほど、国民的な存在になっていた。一方のスプリングスティーン自身は、政権の掲げる「新たなアメリカの楽園」の弊害で干上がった文化の底辺から、容赦ない批判を繰り出している。スプリングスティーンは、自分自身が描いた夢の実現へ向けて貪欲に突き進んできた。1968年に生まれ故郷のニュージャージーにあるオーシャン・カントリー・カレッジを中退した彼は、限りなく実現不可能に思われたロックンロールのソングライターを目指した。さらに、当時マネージャーだったマイク・アペルとの1年に及ぶ泥沼の法廷闘争も経験した。おかげで70年代半ばの約1年間はレコーディングすらできなかったが、彼はじっと耐え抜いた。80年代に入ると『ザ・リバー』(1980年)が200万枚の売り上げを記録し、続く『ネブラスカ』(1982年)では、アメリカの地方都市が抱えるさまざまな痛みや無秩序を、スプリングスティーン特有の声とギターで歌い上げた。そして『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』は、前作と同様のテーマをバンド全体の結束力で追求した結果、突如として最大のヒット作となる。 全米ツアー中のオークランドとロサンゼルス(いずれもカリフォルニア州)で、スプリングスティーンはインタビューに応じた。オークランドのステージで彼は、バークリー・エマージェンシー・フード・プロジェクトの活動を称賛した。ロサンゼルスのハリウッド・ヒルズには、スプリングスティーンの家がある。オープニング曲からラストのジョークを交えたMCに至るまで緻密に練り上げられたステージを、毎回どのように新鮮に見せているか尋ねてみた。「今この時に“その場”にいて、実際に“体験”しているか、が重要なんだ」と彼は答えた。ステージ上でもステージ外でも、彼自身はこのテストに合格しているようだ。