佐藤愛子100歳が語る「兄・サトウハチローは、奇抜で繊細な詩人だった」生誕120年、没後50年
〈発売中の『婦人公論』12月号から記事を先出し!〉 11月13日、サトウハチロー(本名・佐藤八郎)さんの50回目の命日が巡ってきました。数々の童謡や「リンゴの唄」などの流行歌を作詞。センチメンタルな詩、ユーモア小説にエッセイと多彩な才能を見せた人物像を、異母妹の佐藤愛子さんが振り返ります。 (聞き手・構成:本誌編集部) 【写真】上半身裸、くわえタバコで編集作業をするサトウハチローさん * * * * * * * ◆才智を駆使して人を笑わせる 愛子さんが幼い頃、八郎さんが東京から兵庫の家を訪ねてくる様子が近刊『思い出の屑籠』に書かれています。八郎兄さんが来ると家の中が一気に明るくなった、と。 ――いやぁ、面白い人でしたね。人を笑わせるのが大好きなんですよ。八郎が来ると、家中に笑いが満ち溢れました。何より父の機嫌がよくなるんです。父はユーモアのある人間が好きだから、八郎のことは気に入っていました。 八郎には才気があるんですよ。サービス精神旺盛で、機嫌のいい時はありったけの才智を駆使して人を笑わせる。それをまるで自分の義務のように思っているところがありました。 男兄弟は4人いましたけど、昭和の初め、佐藤家の四兄弟といえば世間では不良の代名詞みたいに言われていました。兄たちの思春期や幼い時分に父が家を出て私の母と暮らし始めたために、一家がバラバラになった。やるせない想いをしたことだろうと思います。そんな4人のなかで、うちへ来て皆を笑わせていたのは八郎だけですね。ほかの3人は笑わせるどころじゃなかった。不良をやるのに一所懸命で。(笑) 私が小学生の頃には、八郎は陸奥速男(むつ・はやお)というペンネームで、少年少女に向けたユーモア小説を書いていました。子供ながらに面白いなぁと思って読んでいましたね。作り物であっても、とにかく徹底的に笑わせていました。後に私もユーモア小説を書いたけれど、それは八郎の影響です。 当初は紅緑の息子だからというので書く機会を得たのかもしれません。だけど面白いものを書いて人気を得て、自力で作家になっていったんだと思います。驚くほどたくさんの小説を残していますから。