新一万円札の顔、渋沢栄一に学ぶ「本当に賢いお金の儲け方」…経営者はもちろん大谷翔平にまで支持されるワケ
ESGで渋沢栄一が見直される理由
渋沢は、清くあるためには貧しくある必要はない。お金が汚れているわけでもないから、商才を磨いてお金を儲けなさいと言った。ただしそれは、同時に他人や社会も豊かに、幸せにする儲け方でなければならない、というのが条件だ。 特に渋沢が口を酸っぱくして強調したのが、公益を無視した身勝手な利益追求は長続きせず、いずれ頓挫する、という点だ。だから、利益を独り占めして蓄える財閥のあり方には反対で、三菱グループのワンマン創業者、岩崎弥太郎と大議論になり、船事業でも対立した。 渋沢の主張は、今のESG(環境、社会、ガバナンス、参考記事:フェイスブック株価を下落に追い込んだ「ESG投資」の仕組み)やCSR (企業の社会責任)の基本となる「サステナビリティー(持続可能性)」の考え方を、一世紀前に先取りしたものだ。 リーマンショック後に資本主義の行き過ぎの弊害が一気に顕在化した中で、世界の株式市場も、かつてのROE(株主資本に対するリターンの指標)一辺倒の考え方を反省することになった。企業は社会や環境、従業員や地域コミュニティーを含む全てのステークホルダーの中で存在するものという、かつては「日本企業の古い体質」だと欧米投資家から嫌われた考え方が再評価されることにもつながった。 では、渋沢自身はお金をどう使ったのだろうか。 渋沢が関わった企業の数が500なら、手がけた慈善・社会事業の数は、それを超える600だったと言われる。今の日本赤十字社の前身の博愛社や、渋沢が亡くなるまで院長を務めた生活困窮者のための養育院など福祉事業の他、一橋大学や東京経済大学、日本女子大など、女性を含めた人材育成を考えて教育にも力を注いだ。さらに医療、芸術文化、国際親善と、幅広い分野に大きな足跡を残している。 多数の企業に参画したので、渋沢の資産は自然に増えたようだが、財閥のように産業を支配したり、蓄財をして資産を眠らせたり、子孫に莫大な遺産を残すことはしなかった。関与した会社が軌道に乗ると、さっさとその株を売却して次の会社を興すことに使っていたのだ。あまたの財界人から事業パートナーにならないかと持ちかけられたから、大株主になったり蓄財しようと思えばいくらでもできたはずだが、そうしなかった。 だが、自分の死後に遺族間で争いが起きないようにと、渋沢家の資産を集中管理する「同族会社」を作ったために、戦後のGHQによる財閥解体の対象として調査されることになった。でもこの時に証明されたのは、一族の持ち株比率がどの企業でも低くて。経営支配力を持たないことだった。GHQからは、財閥の体を成していないから対象解除を申し出るように通知を受けたという。 ただ、渋沢栄一の孫に当たる二代目当主の渋沢敬三が、当時大蔵大臣を務めていたこともあって、世間にしめしをつけるためにも、持ち株会社解体の指定を受けて粛々と解散したという。