新一万円札の顔、渋沢栄一に学ぶ「本当に賢いお金の儲け方」…経営者はもちろん大谷翔平にまで支持されるワケ
「資産運用」で成果を上げた原体験
こうした大活躍の原動力となった幕末のエピソードが、これまたドラマチックだ。 渋沢栄一は、尊王攘夷派の農民から一転して一橋徳川家によって武士に取り立てられ、一橋慶喜の徳川15代将軍就任によって、幕府直属の家臣となった。フランスからの要請でパリ万博を視察することになった慶喜の弟、昭武の随行団に選ばれ、渡仏したのが1867年、27歳のこと。渋沢栄一記念財団がネット公開している日記によれば、パリではナポレオン三世に謁見して舞踏会を見たり、万博で欧米の先端技術に感嘆したりと、とても刺激的な日々を送った。 ところが、この年の10月には徳川幕府が大政奉還をして消滅してしまう。渋沢自身の記録によれば、一行はそれをまずフランスの新聞で知り、本国からの公式通知は3ヶ月遅れで届いた。海外出張している間に世の中がひっくり返っていたわけで、測り知れないショックを受けたことだろう。 渋沢は万博の後にフランス留学を計画していた昭武と、お供の水戸藩士一行の経費管理を任されていたが、江戸からの送金が頼りなかったので、倹約を強いられた。そうした中で知り合ったのが在仏日本総領事で銀行家のフリュリ・エラールで、エラールから銀行や公債、社債、株式の仕組みなど、資本主義のシステムを詳しく学んだ。 そして、渋沢はこの知識を実践したのだ。手持ち資金をフランス公債と鉄道債に投資して、利息を得たことを記している。おそらく、外国債券投資をやった最初の日本人だったのではないだろうか。数ヶ月の資産運用だったが、かなりの成果を上げたらしく、倒幕後にイギリスとフランスに取り残された20人程度の日本人留学生の帰国費用の面倒まで見ている。 この渋沢の20代の投資体験がなければ、日本の近代化はずっと遅れていたかもしれない。
渋沢が株に見た「チームワーク」と社会貢献
渋沢栄一の講演録「論語と算盤(そろばん)」は、1916年、渋沢が76歳の時に出版され、一世紀の歳月を経て、今の日本で熱心に読み直されている。昨年WBC(ワールドベースボールクラシック)で侍ジャパンを優勝に導いた栗山英樹監督の愛読書でもある。栗山監督は毎年日本ハムの新人選手らに、人生の指南書として本書を手渡したと語っており、それを受け取った18歳の大谷翔平選手も、これを読んで大リーガーを目指したと言われる。 渋沢は「和魂漢才」、つまり、「やまと魂」を保ちながら先進的な海外の学問を積極的に取り入れるという考え方を、「士魂商才」と言い換えた。道徳と経済は一見矛盾するように見えるが、実は両立する。また、この両方を調和させなければ完全ではない、という意味だ。 これを広げると、人としてどうありたいか、という心や魂の問題と、生存競争に勝ち残るための技術や才能をどう調和させるか、という普遍的で根源的な人生の問いにつながる。 渋沢は、知恵や才覚があっても、他者に対する情愛や、周囲に流されない意思がない人間は全き人ではない、という「知情意」や、自分の身の丈にあった得意分野で社会貢献しなさいという「蟹穴主義」などを説いている。それは、生活のための仕事で成果を上げつつ、生きているという実感を得るにはどうしたらいいか、と悩める今の時代の私たちの心に刺さる。 「論語と算盤」がスポーツ選手から経営者、普通の生活者まで、多くの読者に読まれる理由だ。 渋沢が官僚を辞して民に転じる決断をした時代には、金儲けをする商人になるのは卑しいことだとする封建的な考え方が根強く残っていた。渋沢は、それに反論する形で、子供の頃から親しんでいた孔子の「論語」を、民間で日々実践しようと決心したのだ。その方法が、株などの資本主義システムを、世のため人のためという「公益」に結びつけることだった。 株は「チームプレー」から始まっている。 17世紀初頭の大航海時代。航海は、船が無事帰港すれば大儲けだが、途中で沈没したり海賊に襲撃されたら破産、というハイリスク・ハイリターン事業だ。これを個人でやったのではリスクが大きすぎるので、やがて多数の投資家を募って投資額を小口に分け、そこから得た利益も分け合うという、「荒波も皆んなで渡れば怖くない」という仕組みが作られた。 最初は一回の航海ごとの「プロジェクト投資」だったのが、やがて永続的な「会社」に変わり、さらに「東インド会社」で、会社が倒産しても株主は出資したお金以上は失わない、という「有限」責任の仕組みが生まれた。これでさらに投資がしやすくなり、大きな資金が企業に集まるようになった。 渋沢は欧州で、商人が役人や軍人と対等に接している姿や、民間の産業力を目の当たりにして、強烈な印象を受けた。日本でも民の力で資本と人材を集め、その成果を世の中に広く還元することによって、社会全体を豊かに出来ると信じた。株という仕組みを使って、国の経済力を高め、人々の生活を良くするという社会改革を行うことまで考えていたわけだ。