90年代の韓国で「踊る大捜査線」は青春だった 「室井慎次」が20年後にくれた〝生きる力〟
アジアになかった刑事物
90年代の韓国は「シュリ」に象徴される国策産業としての映画振興政策の確立と大資本の進出、つまり「映画の産業化」が行われる前で、警察官を主人公にして商業的に成功した作品としては「ツー・コップス」シリーズ(93~98年に3作が公開されたが、パート3は観客と評論家から酷評され、興行的に失敗)がある。2人の悪徳刑事が登場するコメディー映画だが、本格的な刑事物に分類するのは無理がある。 香港映画では80~90年代に計4本が製作されたジャッキーㆍチェンの「ポリスㆍストーリー」シリーズがあるが、全ての問題の解決がカンフーアクションヒーローの活躍にかかっていた点で、ドラマの完成度を語る前にまずは彼のファンかどうかが問われるという限界があった。このような面から見ると、テレビドラマとそこから派生した劇場版の「踊る大捜査線」シリーズはまさに革新的だったと言うに値する。
人間賛歌の総合版
警視庁を「本店」と呼ぶ所轄署の刑事たちは人間くさく、刑事よりも民間企業のサラリーマンに近い青島俊作、彼との付き合いを通じて警察改革への意志を固めていく室井慎次を中心に、恩田すみれ、真下正義ら個性的な登場人物が組織の力学の中で奮闘する姿も斬新だった。扱われる事件も恐ろしい凶悪犯罪から大笑いを誘うささいな軽犯罪までいろいろだ(特に、湾岸署内で捜査本部の弁当が重要案件となる様子などは、国家警察という軍に準ずる上命下服組織の韓国の警察を思うとかわいいものだ)。 「正義の実現」という巨大なテーマだけではなく、法の優しさと隣人のような警察官、時には涙ぐましい事情を抱えた犯人の姿を見せるこの「庶民型」刑事物は、韓国において、ユーモアとペーソスと共に、生きる知恵まで伝えてくれる人間賛歌の総合版として位置づけられた。
田舎のおじいさんの生き様に涙
東京の劇場で「室井慎次 敗れざる者」「室井慎次 生き続ける者」 を見るまで期待していたのは、(「踊る大捜査線」シリーズの特性を十分に知っていながらも)予想を超える凶悪犯罪者と最後の対決を繰り広げ、壮絶な最期を迎える彼の姿だった。しかし筆者を待っていたのは、正義について絶えず悩みながら数十年かけて巨大な官僚組織と戦ったにもかかわらず、改革の任務を果たせぬまま故郷の田舎に引きこもった、だだのおじいさんだった。 「室井慎次 敗れざる者」では事件に対する話が多少扱われるが、「室井慎次 生き続ける者」に至ると、刑事物というよりは彼の老年を描いたドラマに近い。だが、それにもかかわらず筆者の目頭が熱くなったのは「元公務員で独身のよそ者」として生きながら、今日も自分の人生の場で希望を探し続ける彼の生き様だった。実の親が責任を負わない子供たちの里親となり、虐待を受ける子供を守り、家を出た息子の行方が分からないという隣人の訴えを聞き、そして未来が見えない田舎町の現実で荒れる若者たちを諦めない。