戦時中、多くの肢体不自由児を守った決断 長野で「疎開」に感謝する記念碑
太平洋戦争のさなか、疎開先探しに困った東京の養護学校を児童、職員ぐるみで受け入れたホテルが長野県にあります。上山田村(現千曲市)の上山田ホテルで、21日には終戦から70年余の時を超え、児童らの感謝を込めた「学童疎開記念碑」の除幕式が行われました。戦時下の学童疎開は健常児が優先され、体が不自由な子どもたちは半ば放置された状態。しかし、奔走した校長やホテル経営者の決断によって疎開が実行されました。 【写真】語られてこなかった障害者の戦争体験 日本や独ナチスでも抑圧の歴史 この日は高齢となった元疎開児童やホテル関係者らが記念碑の前に集い、「子どもたちが再びつらい思いをすることがないように」と訴えていました。
「このまま爆撃で死なせるわけにはいかない」
長野に何とか疎開を果たしたのは当時の東京市立光明(こうめい)学校。1932(昭和7)年に全国で初めて肢体不自由児のための寮舎、医療施設を設けた養護学校として東京・世田谷区松原に開校しました。空襲が次第に激しくなり、1944(昭和19)年には東京などの学童疎開が始まったため、光明学校も対策を急いでいました。 上山田ホテルの若林正樹社長はこの日、当時を知る元県職員・太田今朝秋さん(94)の詳細な疎開の経緯を紹介しました。 これは今年1月に掲載された県職員OBの会報によるもの。それによると、光明学校の松本保平(やすひら)校長は、東京市教育局などに同校の疎開を要請しましたが、「健常児の疎開が優先だ」「疎開は校長が考えろ」と取り合ってくれませんでした。 「このまま子どもたちを爆撃で死なせるわけにはいかない」。松本校長は疎開先になりそうな各地を当たりましたが、医務室、リハビリ室などの設備のほか、60人余の児童と職員を合わせ150人ほどの規模になる疎開を受け入れるところはなかなかありません。
同校長は「教育に熱心で理解もある長野県に頼んでみよう」と上山田村役場を訪問。村長を訪ねましたが、役場では「もう村は疎開児童でいっぱいで余地はない」と面会すら許してくれません。校長はついに座り込んでしまったため、若林正春村長が会ってくれました。 体が不自由な子どもの学校での実情や東京市の対応などを説明し、切実に訴える校長の姿に若林村長は心を動かされ、「私の家(経営している上山田ホテル)の3階までの客室と別館を提供するしか方法はない」と考え、しばらく待つようにと伝えました。 しかし、疎開の受け入れによってホテルは営業中止になり、従業員の生活にも響くなど難問だらけ。それでも子どもたちのためにと従業員らが理解を示し、疎開が実現することになった――と太田氏は記しています。