戦時中、多くの肢体不自由児を守った決断 長野で「疎開」に感謝する記念碑
自分のホテル営業を止めてまで受け入れ
大喜びした光明学校の職員、保護者や子どもたちは疎開の準備を進めました。学校の設備など大きな荷物の梱包は、世田谷に駐留する陸軍の責任者の厚意で兵士が学校まで応援に。1944(昭和19)年5月15日、学校ぐるみでホテル最寄りの長野・戸倉駅に向かうことができました。 上山田ホテルでは、床の間付きの座敷を大勢の児童や職員の居室や寝室に使い、別館の洋間はレントゲンを据え付けて診療室に。松葉づえなどの歩行器具の使用で畳が破れましたが、戦時中の物資不足で補修もできませんでした。 若林村長が営業を止めてまでホテルを疎開児童に提供したことに住民も共感し、子どもたちは地域に受け入れられていきました。ホテルに野菜を差し入れてくれる人や「子どものおやつに」と餅や果物を持ち込む人もいて、職員は感激。ホテルの大女将(おおおかみ)も母親代わりになって世話をし、子どもたちも懐いていた、と太田氏。 しかし、1945(昭和20)年5月下旬の東京への空襲で世田谷の校舎と麻布の分校が焼失したため、8月15日の終戦以降も疎開児童らの東京帰還は不可能になってしまいました。ホテルでの疎開生活は、学校が再建される1949(昭和24)年まで4年にわたり続きました。
戦後70年余たつ現在も、当時の児童らはこの疎開を忘れることができず、若林社長の母、和子さん(85)との間で「感謝の気持ちと肢体不自由児の疎開の事実を残すために碑の建立を」との計画が具体化。太田氏によると「昨年にはホテルとの相談も始まっていた」といいます。
「村長が校長の熱意にほだされた」
この日の除幕式には、疎開児童だった今西美奈子さん(82)=大阪府枚方市在住=とホテル関係者、松本校長や現在の都立光明学園の関係者ら約50人が出席。若林社長は「学校と私の母の間で進んだ話で、実現してありがたいことです。若林正春が松本校長の熱意にほだされたのが始まりで、その心が今につながっていることを喜びたい」とあいさつ。 脚が不自由な今西さんは、疎開の経験を「大阪から縁故疎開で長野に来ていて光明学校の上山田への疎開を知り、昭和20年秋にホテルの学校に4年生で転校した。友達となじめず、連れて帰ってくれと泣き叫んで母親に訴えたことも」と振り返りました。 さらに「こんなに勉強時間が少ない学校はいやだ」とも。しかし後で、大勢の児童の食料を確保するために先生たちが毎日のように走り回って食材を集めていたため授業が十分行われなかったと知りました。今西さんは「再びこのようなつらいことが起きないようにしてほしい。今日来ることができなかった同級生たちに記念碑除幕のうれしい気持ちを伝えます」と話していました。