世界の「最強企業」たちが人材の争奪戦を開始…「最強の学問」行動経済学は、ビジネスでどう活用されている?
「システム1」の思考モードが「ジェンダーバイアス」の罠を生む
──想像以上に色々な場面で行動経済学が活かせるのですね。ご著書では、サステナビリティやDEI(ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン)といったトレンドに行動経済学が応用されているとありました。DEIの促進に効果がある事例を教えてください。 アメリカでは、採用で「カテゴリー化のバイアス」をできるだけ避けるために、顔写真なしの履歴書が一般的です。見た目がよい方に「ハロー効果」が働いて、「仕事もデキそうだな」と思ってしまうかもしれない。また、男性か女性かが写真から推測できると、「ジェンダーバイアス」がかかりやすくなってしまいます。意識が高い会社だと、書類審査で名前も伏せています。名前から性別や人種を推測してバイアスに陥るのを防いでいるのです。 本来、見た目はビジネスのパフォーマンスには関係ないですよね。だから、カテゴリー化やジェンダーのバイアスを、採用のような大事な意思決定で最小限にし、ダイバーシティ実現に寄与することをめざしています。そのために大事なのは、人間にはバイアスがあると自覚することです。 ──こうした認知バイアスがかかっているとき、行動経済学上、私たちの思考はどんな状態になっていると考えるのですか。 人間の情報処理では、「システム1」と「システム2」という2つの思考モードが使い分けられています。「男性はこう、女性はこう」と考えているときは、直感的で瞬間的な判断である「システム1」を使っている状態。だから、意識的に、注意深く時間をかけた判断の「システム2」に切り替えることが必要です。 私たちは、性別を聞かれると、「女性はこういうタイプの仕事には向いてないのかな?」と男女に紐づけやすくなってしまう。これを「プライミング効果」と呼びます。さらには、たまたま女性が失敗しただけで、「やはり女性はこの仕事に向いていない」と結びつけてしまうことも。これは「確証バイアス」が働いている状態です。 こうした認知バイアスによって強化された固定観念は、他者だけでなく本人にも影響するんですよ。 ある実験では、数学の問題を解いてもらい、男女の得点差を比較しました。1つめのグループは解く前に性別を尋ねられた。もう1つのグループは何も尋ねられなかった。すると、後者のグループでは男女の得点差はなかったのに対し、前者のグループでは女性の方が男性より得点が低かったのです。 アメリカでも、「女性のほうが男性より数学ができない傾向にある」というバイアスがあります。普段はそう信じていない女性でも、性別を聞かれたことで、そのバイアスを思い出し、「どうせ私にはできないから」という感情が湧き上がってきた可能性がある、と考えられます。 ■「不確実性回避」をうまく防ぐ「問い方」とは? ──こうしたバイアスにできるだけ対処するためのアドバイスはありますか。 おすすめは、変化を前提にして、変化を促すことです。人間には、リスクの確率が未知な状況を避けようとする「不確実性回避」の傾向があるので、変化を嫌う面がある。だから、考え方や行動を「変わるか変わらないか」に焦点を置くと、「変わりたくない」になりがち。そこで、「AとBどちらに変わるのがいいですか」と、変化の選択肢に焦点を置いて尋ねると、変化しようという発想になりやすいのです。 ホフステードの6次元モデルによると、日本人は不確実性の回避度が高い傾向にあるとされます。ただし、一度変化すると決めたら、一斉にスピーディーに変化するんです。社会規範の力が大きいことも影響しているのでしょう。 多様性を尊重する考え方も、行動経済学の知見を活かして「変化する」と決めれば、スピーディーに変化していくのではないかと考えています。 ──それは前向きな気持ちになりますね。 あとは、行動経済学は職場だけでなく、パートナーや子どもとのコミュニケーションにも活かせます。たとえば、子どもに「先にお風呂に入って」と指示するのではなく、「ご飯とお風呂どっちを先にする?」と尋ねてみる。すると、自分で決めている実感が得られ、いずれかの行動をとってくれますよ。 ■何度も読み返した衝撃の論文 ──相良さんの価値観に影響を与えた本または論文があれば、ぜひ知りたいです。 衝撃的だったのは、1979年に行動経済学者のダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーが提唱した「プロスペクト理論」の論文です。 プロスペクト理論とは、人が損失に対して過剰に評価する傾向を示した理論のこと。その心理的特徴の1つは「損失回避性」とも呼ばれます。1万円を得る喜びの度合いよりも、1万円を失うショックの度合いのほうが大きいというものです。 そのほか、参照点依存性もこの理論が示す特徴の1つ。私たちは意思決定の際に、絶対的な価値ではなく、ある参照点をもとに評価する傾向にあります。たとえばボーナスが90万円と思っていたのに100万円だったら自分の期待を上回るので満足度が高くなる。一方、110万円と期待していて100万円だったら満足度が低くなるんです。 この功績は、ダニエル・カーネマンの2002年のノーベル経済学賞受賞にもつながりました。プロスペクト理論で、人間が必ずしも合理的な意思決定をするわけではないことが、世の中に広まっていった。本当にすごい論文だなと思いましたし、大学院生の頃は、論文の用紙がボロボロになるくらい何度も読み返しましたね。 ──最後に、行動経済学の面白さを改めて教えてください。 行動経済学の面白さは、人間の心理が複雑であるゆえに、常に多種多様なケースに向き合えること。先ほど「性別を尋ねるだけで試験の結果が違う」ことを示した実験を紹介しました。この発見に至るには、実験の時点で、「最初に性別を尋ねるかどうかでジェンダーバイアスが影響するかもしれない。だから対照実験が必要ではないか?」という観点に気づく必要があります。まさに、行動経済学の知見を総動員することが求められます。 ビジネスの現場は、色々な条件が統制された研究室での実験以上に複雑な環境です。その分、新たな発見に満ちているのが、行動経済学をビジネスに応用する面白さでもありますね。 <相良奈美香(さがら なみか)> 「行動経済学」博士。行動経済学コンサルタント。 日本人として数少ない「行動経済学」博士課程取得者であり、行動経済学コンサルティング会社代表。 オレゴン大学卒業、同大大学院 心理学「行動経済学専門」修士課程および、同大ビジネススクール「行動経済学専門」博士課程修了。デューク大学ビジネススクール ポスドクを経て、行動経済学コンサルティング会社であるサガラ・コンサルティング設立、代表に就任。その後、世界3位のマーケティングリサーチ会社・イプソスにヘッドハントされ、同社・行動経済学センター(現・行動科学センター)創設者 兼 代表に就任。現在は、ビヘイビアル・サイエンス・グループ(行動科学グループ、別名シントニック・コンサルティング)代表として、行動経済学を含めた、行動科学のコンサルティングを世界に展開している。 まだ行動経済学が一般に広まる前から、「行動経済学をいかにビジネスに取り入れるか」、コンサルティングを行ってきた。アメリカ・ヨーロッパで金融、保険、ヘルスケア、製薬、テクノロジー、マーケティングなど幅広い業界の企業に行動経済学を取り入れ、行動経済学の最前線で活躍。 自身の研究はProceedings of the National Academy of Sciencesなどの権威ある査読付き学術誌のほか、ガーディアン紙、CBSマネーウォッチ、サイエンス・デイリーなどの多数のメディアで発表される。また、国際的な基調講演を頻繁に行い、その他にもイェール大学やスタンフォード大学、アメリカ大手のUberなどにも招かれ講演を行うなど、行動経済学を広める活動に従事している。他、ペンシルベニア大学修士課程アドバイザーを務める。 <flier編集部> 本の要約サービス「flier(フライヤー)」は、「書店に並ぶ本の数が多すぎて、何を読めば良いか分からない」「立ち読みをしたり、書評を読んだりしただけでは、どんな内容の本なのか十分につかめない」というビジネスパーソンの悩みに答え、ビジネス書の新刊や話題のベストセラー、名著の要約を1冊10分で読める形で提供しているサービスです。 通勤時や休憩時間といったスキマ時間を有効活用し、効率良くビジネスのヒントやスキル、教養を身につけたいビジネスパーソンに利用されており、社員教育の一環として法人契約する企業も増えています。 このほか、オンライン読書コミュニティ「flier book labo」の運営など、フライヤーはビジネスパーソンの学びを応援しています。