紫式部の父・為時を「大国」越前守に抜擢したのは道長?結婚適齢期を過ぎた娘をわざわざ赴任先に連れていった理由とは…
◆適材適所の人事 ついでに、触れておきましょう。 律令制の施行細則について書かれた「延喜式(えんぎしき)」によれば、当時の日本の国々は広さ(面積)や人口、政治力、経済力などで、「大国、上国、中国、下国」の四つの等級(格)に分けられていました。 大国は第一等の国で、大和(やまと)・常陸(ひたち)・越前など十余ヵ国。上国は第二等で、山城(やましろ)・摂津(せっつ)など三十余ヵ国。中国は第三等で、安房(あわ)・若狭(わかさ)など十余ヵ国。下国は第四等で、伊賀(いが)・淡路・壱岐(いき)など9ヵ国です。 つまり当初、為時が国司に任命された淡路は最下級の国(下国)で、のちに変えられた越前は、上級の「大国」というわけです。 そのころ、宋の国から商船に乗った唐人七十余人が若狭(福井県南部)の湊(みなと)に到着していました。じつは、一条帝から話があったとき、漢籍に秀で、唐国(からくに)の事情にも詳しい為時を、故意に道長がえらんだのだ、と私は思います。 越前守となった為時は、さっそく宋の商船を越前の湊に移し、彼らを厚遇しました。さらに国司の館を訪問した唐人に、為時は漢詩二篇を贈ったのです。 漢語漢籍に熟達した為時だからこそ、この事態に対処できたと言えるでしょう。 為時を越前守に抜擢した藤原道長は、「適材適所の人事をおこなった」ということで、たいそう名をあげたそうです。
◆なぜ紫式部までが越前へ行くのか さて、父に付きしたがって、越前に向かった紫式部は、20代も半ばをすぎていました。 このころ、女性の結婚適齢期は十六、七歳でしたから、紫式部は若くはない。「婚期を逸(いっ)した」女性といえます。 それなのに為時は、そういう娘(紫式部)をなぜ、わざわざ自分の任地の越前へ伴っていったのでしょうか。 冒頭部に、「父の身のまわりの世話をする必要」と書きましたが、亡くなった母以外にも、為時には数人の妻(愛人)がいました。でも、同じ屋敷に暮らしていたのは、紫式部の母だけだったのです。 当時は一夫多妻制で、基本的には夫が妻のもとをおとずれる「通い婚」です。まれに、「一妻多夫」のごとき場合もあり、紫式部の同僚・和泉(いずみ)式部がそうです。 ちなみに、正妻というのは、「所顕(ところあらわし)(結婚披露)をきちんとした妻のこと」で、『源氏物語』に主役級で登場する光源氏最愛の女性、紫の上と光源氏とは、その「所顕」をしておりません。 それでも紫の上は、源氏の建てた屋敷にずっと住んでいました。 じっさい、通い婚ではなく、同居していた夫婦も少なからずいたようです。
【関連記事】
- なぜ紫式部の父・為時は「藤原」なのに落ちぶれていたのか…「おまえが息子であったら」と嘆くのも納得な<一族の歴史>
- 『光る君へ』未登場「紫式部の姉」とはどんな人物だったのか?紫式部の婚期を遅らせたかもしれない<ちょっと怪しい関係>について
- 本郷和人『光る君へ』本郷奏多さん演じる花山天皇に入内した井上咲楽さん演じるよし子は、そのまま「夜御殿」で…そもそも「入内」とは何か
- 本郷和人『光る君へ』「和歌」による求愛を「和歌」で拒絶!絶世の美男美女・在原業平と小野小町のやりとりから見る<平安時代の恋愛ルール>
- マンガ『源氏物語』4話【帚木】抵抗する人妻・空蝉を17歳の「光る君」は強引に…「私を青二才と見くびってあんな年寄りの夫を」