時代の試練に耐える音楽を――「落ちこぼれ」から歩んできた山下達郎の半世紀
お金がなかった時代のことは忘れない
「この年になると、ジュブナイルや20代、30代のことが思い出されてくる」と、青春時代を振り返る。山下が生まれ育ったのは東京・池袋。「東京の人間は、口が悪いんです」と笑う。70年安保闘争の頃に高校生だった。 「小・中学校の頃はわりと優等生タイプで、理系志望でした。でも、高校に入ってバンドにうつつを抜かすようになった上に、70年安保があったりして、ちょっと人生が狂ってドロップアウトしてしまった。高校の時は、今でいう不登校に近かった。大学は理系はとても無理になっちゃったので、法学部に行って著作権を勉強して音楽出版社にでも行ければ、と思ったんですけど、大学に入って3カ月ぐらいでバンドを始めて、やめちゃった。それでシュガー・ベイブを作って、22の時にデビュー。でも、自分的には落ちこぼれなんです」 「当時、家では親父から、『学校に行かないやつをうちに置いててもしょうがないから出てけ』って言われてたんですよ。最初にシュガー・ベイブが所属した事務所が給料をくれなくて、数カ月後につぶれて、あの時は本当に困窮した。だけど、運良くCMで使ってもらえて、飢え死にしなくて済んだんです。不二家のハートチョコレートのCMは、人生で3本目のCM作品だったんです。僕の実家は街の菓子屋・パン屋というか、そういう店をやっていたんだけど、台所で親父と無言で飯食ってたら、テレビからそのCMが流れてきた。『これ、俺がやったんだよ』って言ったら、親父はテレビをチラッと見て。それ以降、何も言わなくなった。世の中は、やはり形にして出さないと、いくら俺は最高の音楽を作ってるんだと御託こいても駄目なんだ、という教訓」 お金がなかった頃の記憶は鮮明に残っている。 「実家の店にはレジスターがあって、引き出しを1センチ開けるとチーンって音が鳴るんですよ。なので5ミリぐらい開けて、ようじにセロハンテープを付けて200円くすねて、往復の電車賃にしてた。親父はたぶん知ってたと思うけど。ある日、その金で実家の練馬から渋谷に行って、ライブのリハーサルに参加したことがあってね。スタジオに行くと、売れっ子ミュージシャンばかりで、夕飯時になると、出前にウナギをとろうか寿司にしようかと楽しそうでね。で、『山下さんはどうします?』って言われて、『あ、僕、食ってきましたんで』ってウソをついた。一番金がなかった時代の、あれだけは忘れないな(笑)」