ゴーン氏の勾留長期化──文化的背景から考える日本の司法制度の特殊性
「家」の和を乱すことへの嫌悪
司法とは、政治権力よりもロングスパンの権威としての法をつかさどるものだ。もちろん法律自体は時代によって変化するが、それをつかさどる仕方にはその社会の文化的連続性が作用している。 歴史を振り返ってみよう。 大宝律令(701年)以来、日本は法律をもつ国となったが、形骸化するのも早かった。武家の時代には、貞永式目、武家諸法度といった基準はあったものの、現実にはそれぞれの「御家の事情」によって運営されてきたのだ。「法」よりも「家の掟」である。日本は「家社会」だ*3。 明治維新によって、西欧に倣った近代法制が確立されるが、基本的に大日本帝国という大きな家の秩序が重視された。戦後、民主主義となったのであるが、根幹にはアメリカの力が働いて、日本の政治は憲法と安保の間で揺れ動いてきた。そういった歴史が現在にまでつながっている。 前にゴーン前会長の逮捕を田中角栄元首相逮捕と比べたが*4、今回も、ロッキード事件、リクルート事件、東京佐川急便事件などと続いた経済事件に対する特捜部捜査の延長上にあると考えれば、つまり、違法性もさることながら巨額の金のやりとりに対する国民感情をテコにした追及と考えれば、理解しやすい。 資本主義の国であり個人の権利と自由が保証されているのだが、それらの過度の結びつきは制限されているのだ。日本人は、法を犯すことよりも、「強欲」によって「家の和」を乱すことに対する嫌悪感が強い。
日本の正義と世界の正義
ということは、日本では普遍的な正義と思われていることも、国際社会では必ずしもそうではないということも考えなくてはならない。 たとえば近隣との関係において、国際司法裁判所に判断を委ねるという選択がある。力ずくでは紛争を解決しない、という憲法からは当然かもしれないが、必ずしも日本が思っているような結果になるかどうか、一抹の不安を感じる。国連という機関がそれほどしっかりしているわけでもなく、いくつかの国から選ばれている判事も、感情のある人間であり、多少とも国家利益を背負っている。そこには宣伝合戦やロビー活動が功を奏する余地もあるのではないか。つまり世界の正義は政治によって揺れ動くということだ。 声高に正義を叫ぶだけではうまくいかないだろう。戦略と忍耐が必要だ。個人が社会で生きるために求められることが、国家が国際社会で生きるためにも求められる。 いずれにしろ、国家の最終判断機関である司法に、その社会の文化的性格が反映されるという思いを新たにした。一見平凡なわれわれの日常も、こういった司法の基盤の上で危うい均衡を保っているのだ。 ところで僕は、研究室にじっとしているのが苦手で出歩くことが多く「学問は街にある」と豪語していたので、閉じ込められて自白を強要されればひとたまりもないだろう。この点は何とかしてもらいたいものである。 *1:yahoo!ニュース個人「ゴーン氏再々逮捕は、検察による「権力の私物化」ではないのか」(2018年12月21日) *2:この小説にはペテルブルグの都市と建築が子細に描かれている。この告白の前と後では、主人公の目に映るペテルブルグの街の様相が違っている *3:『「家」と「やど」―建築からの文化論』若山滋・朝日新聞社 *4:THE PAGE「キングの逮捕劇──カルロス・ゴーンと田中角栄の文化論」(2018年12月1日)