ゴーン氏の勾留長期化──文化的背景から考える日本の司法制度の特殊性
自白によって楽になる
日本では、逮捕されること自体が社会的名誉の失墜になる。手錠、腰縄は見せしめのようでもある。 警察の逮捕は送検につながり、検察の取り調べは起訴につながり、起訴は有罪につながる。その率がきわめて高いので、マスコミも逮捕段階で犯人扱いをする。イギリス、フランスの大使館員をつとめた友人によると、あちらでは逮捕されても立件に至らず釈放になるケースが多いという。 実際、ホリエモンや村木厚子さんなどの経験者によると、長期勾留されて取り調べを受けると、早く認めて解放されたいという心理が働き、しまいには自分がやったように思い始めるのだという。これはけっこう恐ろしいことだ。ドラマや映画でも、取調官が「白状すれば楽になるぞ」といっているが、そのことが冤罪を生んでいる可能性もある。 欧米のドラマでは、犯人は最後まで悪人であるが、日本のドラマでは、なぜか最後は海辺か河原かビルの屋上で、犯人が犯行に及んだ事情を述べ、諭されて改心し、何か晴れ晴れとした顔でお縄につくことが多い。 つまり日本では罪を犯しても、認めて謝罪し、そこにそれなりの事由があれば、同情されて周りの人間が味方になってくれる。この「周囲との和解」が重要で、和を取り戻すことによって楽になるのだ。法的・思想的論理や個人的価値観よりも、自分の周囲の私的で曖昧な集団内の「暗黙の掟」に従うことがしばしばである。 その曖昧な集団の最大値が「世間」というものではないか。 もはや日本文化論の古典ともいえるルース・ベネディクトの『菊と刀』でも、日本人にとって「世間」が神に近い意味をもち、その和を乱すことを嫌うことを指摘している。
正義は文化によって変化する
欧米では、個人は法の論理に基づいて徹底的に争う。謝れば自己の罪を認めることになる。罪の対象は「神」である。日本では罪の対象は「世間」であり、自己は世間の中で生かされている。だから世間との和解は、神の赦(ゆる)しと同等である。 カトリックの社会では「告解」という、教会の一隅で顔を隠した神父に自己の罪を告げることによって神の赦しを乞うというシステムがある。神父は神の代理人として秘密を守る義務がある。つまり告解によって楽になるのだが、日本の取調室における「自白して楽になれ」はどこかそれに似ている。 とはいえ欧米の司法制度が理想的であるかどうか。 正義の主張がぶつかり合うヨーロッパには中世の異端審問や魔女狩りの歴史がある。理論と思想の闘争は残酷なものだ。アメリカの陪審員制度が人種差別を反映するのは、西部開拓時代のリンチを思い起こさせる。この国では力のある方が正義なのか。つまり欧米の司法制度でも冤罪が生まれる可能性はあるのだ。 ドストエフスキーの『罪と罰』という小説は、金貸しの老婆を殺した主人公が、捜査陣の追及と罪の意識とで精神的に追い込まれ、訳あって売春婦となった女性に犯行を告白するという物語だが、彼女は「大地に接吻して大声で犯行を告白なさい。そうすれば神があなたに再び命を授ける」と叫ぶ*2。ロシアの文化においては、罪の概念が大地と神に対しているのだ。西欧の「理」に対して「情」を重視するところは日本にも似ているが、そこに神の存在があることは異なっている。 つまり一国の司法制度というものは、民主主義という単純な論理では片づけられない、その社会に根づいた文化を背景としているのだ。正義は文化によって変化する。