「謀反」ではなかった「磐井の乱」の深層
朝鮮半島に軍事力で影響
磐井の墓と考えられている岩戸山古墳(福岡県八女市)の石人・石馬(筆者撮影)
古代の朝鮮半島は、周囲の大国に翻弄され続けた。『魏志倭人伝』などに登場する朝鮮半島の「楽浪郡」や「帯方郡」は、漢や魏が支配していた土地だ。朝鮮半島南部の百済、新羅、伽耶(小国家群)が国の形を整えるのは、4世紀に中国の王朝が衰退してからなのだが、その後、今度は北方の騎馬民族国家・高句麗が、南下政策をとりはじめ、半島南部を圧迫した。そこで彼らがあてにしたのは、背後の憂いのない倭国(ヤマト政権)の軍事力だった。5世紀の「倭の五王」が東アジアで注目を浴びるようになったのは、朝鮮半島に遠征軍を送り込むことができたからだ。ヤマト政権は、「半島国家の生き残りを賭けた死闘」に、引きずり込まれていたわけだ。 ただし、ヤマト政権側からみれば、朝鮮半島南部の鉄資源はのどから手が出るほど欲しかったし、対岸の伽耶諸国とは、同一文化圏といっても過言ではないほどの強い結びつきと交流があり、さらに、この一帯が「緩衝地帯」の役割を担っていたから、積極的に出兵する理由はあった。
本文:3,066文字
購入後に全文お読みいただけます。
すでに購入済みの方はログインしてください。
関裕二