「サブスク天国」に満足できないオタクの悲しい性
当初、YouTubeの画質はまったくお粗末なものだった。ムーアの法則が生きている以上、画質はいずれパッケージメディアと同等以上になることは自明だったのだが、当時気が付いている人は少なかった。 YouTubeで忘れがたいのは、「ハルヒダンス」の世界的流行だ。2006年4月から7月にかけて放送されたアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」は、音楽に合わせて登場キャラクターらが踊るエンディングが話題になった。同エンディングは「ハルヒダンス」と命名され、できたばかりのYouTubeに違法アップロードされて、世界中に広がっていった。 著作権法違反ということで、動画像は消去されるのだが、消されても消されてもアップロードは続き、世界のあちこちで実際に踊ってみる者が続出した。 結局のところオタクとは、自分の好きなものを「見て見て!」と広めずにはいられない生き物なのだ。「推し」という言葉があるが、どこに向かって推すかといえば、「知らない人」に向かって推すのだ。そして推すことによって副次的に発生する迷惑は顧みない。その様は、縁なき衆生に仏法を説くというか、魚に説教するパドヴァの聖アントニオというか――多分宗教的情熱と同質の、人間の本質の一部なのだろう。 ハルヒダンスは違法アップロードされることで、日本のみならず世界の流行になった。同時にアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品も世界に広がり、さらにはアニメを制作したアニメスタジオの京都アニメーションが世界的な名声を獲得するきっかけにもなった。 そしてサブスクリプションの時代が来る。2006年にAmazon Unbox(現Amazon Prime Video=アマゾンプライムビデオ)が、2007年にNetflix、2008年にHuluがそれぞれアメリカでの動画配信サービスを開始。2010年代に入ると日本に進出し、さらには日本でも独自の配信サービスが立ち上がった。今までは月額定額料金で、考えられないほどの多種多様な映像作品を自宅で見ることが可能になった。サブスクは映像のみならず、音楽や電子書籍にも広がり、現在に至っている。 サブスクには、「そのやり方で、本当に作り手の側にきちんとお金が回るのか」という重大な問題がある。が、今回は作り手の側ではなく、消費者の側の問題のみを考えよう。 ●マニア・オタクはそれでも満足できない サブスクにより、大量の映像作品が手軽に見ることができるようになって、マニアやオタクは満足したのか? これがしていないのである。なぜなら「作品が消える」からだ。「サブスクだと作品消えちゃうから、どうしても物理的なディスクを買っちゃうんですよ」とは、重度の映像マニアの友人の言である。「だって、見たい時に見られなければ意味ないでしょ」という。 念のために説明しておくと、サブスクでは、映像の権利者と一定期間の配信を行うという形で契約を結ぶ。つまり、一定期間が過ぎれば作品は見られなくなり「消える」。権利者側は、サブスクからの収益を最大にしたいから、最初は特定のサブスクサービスと高値で独占契約を結び、契約終了後は、あっちのサービス、こっちのサービスと渡り歩いて配信していくことになる。 人間、いつ何を見たくなるかなんて、分かったものではない。すると「見たい!」と思った時には、もう配信が終了していて、どこか別のサービスで配信していないか探し回って新しいサービスに加入する必要が出てくる。気が付くといくつものサブスクに加入しているということもしばしばだ。どうせなら複数のサブスクを存分に使いこなしたいところだが、残念ながら人生の時間はそこまで潤沢というわけではない。 他方、マニアでもオタクでもないごく普通の人は、サブスクをうまく使いこなすのがなかなか難しい。なぜなら、「今、サブスクでどんなすごい作品が配信されているのか」という情報にたどり着けないからだ。 すると結局、「今、テレビで放送していてみんながSNSにああだこうだと書き込んでいるもの」「この前まで映画館でかかっていて、みんなが話題にしていたもの」をサブスクで見ることになる。なんのことはない。得られる情報は、茶の間のテレビをみんなで囲んで、新聞広告で映画を選んで映画館に通っていた、半世紀前と大して変わらないということになってしまうわけだ。 「何でもあります。月額なんぼの定額で、見ることができます」というのは、間違いなく革新的なサービスなのだ。確かに利便性は大きく向上した。が、それで消費者が得られる情報はといえば、実質として半世紀前と大して変化していないのである。 が、「なぜ向上していないか」と考えると、そもそも映像リソースに対する態度が、以前と全く変化していないからだと気が付く。