「サブスク天国」に満足できないオタクの悲しい性
しかしながら、単なる「知っている/知らない」を超えて、知のパースペクティブまでを提示する批評や評論まで進もうと思ったなら、文脈の分析や類似作との比較は不可欠の作業となる。 オタクやマニアと批評家・評論家を分けるのは、その作業が「自分はこんなに深いことを言える」「自分はこんな細かいことを知っている」「こんなにレアなものをコレクションしている」という形で、他人との比較の形で自尊心を満足させるために使われるか否か、だろう。 オタク・マニアは、知識や知性の高みに到達する必要条件であって十分条件ではない。確かにモーツァルトは音楽オタクであろうが、音楽オタクなら誰でもモーツァルトになれるわけではない。とはいえ、マニア・オタクがモーツァルトの境地という山頂に至る登山道の登山口であることもまた確かである。 ●サブスクがゲタを履かせてくれる さて、登山が交通機関の普及である程度たやすくなったことにも似て、ネットの普及とサブスクリプションサービスの登場で、誰であっても「オタク・マニア」のレベルまでは随分と到達しやすくなったと思う。 いわゆる「オタク第1世代」というのか、およそ1960年代後半から70年代にかけて、どんどん豊かになる世相とともにテレビアニメを見てマンガ雑誌を読んで育ち、成人しても趣味が続いた人たちの世代の回顧談を読むに、テレビ放送というものが文字通りの一期一会だったことが痛切にわかる。 放送は文字通り放ち送られ、そして流れ去ってしまうものだった。放送日時にテレビの前にいないと、見ることはできないのだ。しかもテレビは一家に1台あれば御の字であって、家族の見たい番組が別のチャンネルにあれば、まず家庭内の「チャンネル権争い」に勝たねばならない。多くは父親が見たいNHKのニュースや野球のナイター中継と、アニメ番組とのぶつかり合いであった。一期一会をいかに強く心に刻みつけるか――テレビ視聴とは、オタク・マニアにとって文字通りの「勝負」だったのだ。 一方で、その時代にはその時代なりの抜け道はあって、夏休みや春休みになると、子供向け番組はよく再放送をした。例えば自分は「ウルトラマン」を幼稚園の頃の本放送ではなく、小学生になってからの夏休みの再放送で全部見た。バルタン星人とかギャンゴとかドドンゴとかメフィラス星人あたりの怪獣・宇宙人は、夏休みのけだるい暑さと、氷を浮かせたカルピスの味と記憶の中で結びついている。 1970年代末から1980年代にかけてホームビデオの普及が始まると、「放送する時刻にテレビの前にいなくてはならない」という制限はかなりゆるくなった。が、そうなったらそうなったで、まだ高価だったビデオテープをどのように賢く使うかでオタク・マニアは知恵を絞ることになった。放送の際にビデオデッキにつきっきりでCMのたびに録画を一時停止するのは当たり前のことだった。今となっては、切ってしまったCMのほうが貴重な映像になってしまったのだけれど。 1980年代半ばになると、レーザーディスク(LD)の普及でパッケージ化されたコンテンツが大量に販売されるようになり、しかもパッケージのほうがビデオの録画よりも画質が良かったものだから、映像コンテンツは徐々に「テレビ放送を録画するもの」から「ディスクを買うもの」に変化した。 ●「うる星やつら」に33万円 1987年にテレビアニメ「うる星やつら」のレーザーディスク全話セット50枚組み、定価33万円(もちろん消費税はない)が発売された、なんてことが思い出される。「うる星やつら」は先般アニメとしてリメイクされたが、LDセットになったのはもちろん1981年から1986年にかけて放送された最初のアニメだ。押井守監督の出世作でもある。 このセットは初回3000セットが売り切れて、さらに3000セット再版したそうだ。つまり全国で6000人のオタクが、アニメ「うる星やつら」全話のために33万円をはたいたのである。 レーザーディスクは盤面材質と製造工程の都合上、盤面に焦げた樹脂が混入することがごくまれにあって、買ったならば検品が必須だった。宇宙開発事業団(当時)・種子島宇宙センター勤務の若手技術者にも33万円を払った猛者がいて、折あしく「H-I」ロケット打ち上げの時期に届いてしまい、忙しい準備作業の合間に必死で50枚のレーザーディスクの盤面を検品していた――なんて話を聞いたのは、だいぶ後のことである。 やがてレーザーディスクはDVDになり、さらにブルーレイ・ディスクになり画質が良くなっていった。オタク・マニアはディスクを買うし、そうでない人はディスクをレンタルショップで借りる時代となった。 次の根本的な変化は2005年のYouTube(ユーチューブ)のサービス開始だった。