「サブスク天国」に満足できないオタクの悲しい性
「侍タイムスリッパ-」で思い出した映画
自主制作で単館公開から始まり、好評につき全国展開となった話題の映画「侍タイムスリッパ-」(安田淳一監督)を見てきた。いや、面白かった! 幕末、会津藩士・高坂新左衛門(演じるは山口馬木也)は、京で長州藩士・山形彦九郎を討たんとし、斬り合いとなる。そこに落雷。なんと高坂は現代の京都にやってきてしまった。140年も昔に徳川幕府が滅んだことを知った高坂は絶望するが、やがて鍛えた剣の腕前を生かし、時代劇の「斬られ役」として生きていくことを決意する――。 面白い映画に当たった時は、面白さを堪能するだけで十分。面白さの文脈を分析したり、類似作を探したりするのは、オタクかマニアかの悪い癖……というのは知っているが、ちょっとこの映画は特別だった。なぜなら「スローターハウス5」(1972年)と共に私が愛してやまぬ、ジョージ・ロイ・ヒル監督のもう1本の映画「華麗なるヒコーキ野郎」(1975年)とモチーフが共通していたからである。 「侍タイムスリッパ-」は、これから見る人も多かろうから、ここではそろそろ半世紀前の映画となる「華麗なるヒコーキ野郎」の粗筋を紹介しよう。 第1次世界大戦後、アメリカ合衆国(以下アメリカ)で軍用機が大量に民間へと払い下げられ、それらを使って曲技飛行の興行で稼ぐパイロットが出現した。通称「バーンストーマー」という。 主人公のウォルド・ペッパー(ロバート・レッドフォード)はそんなバーンストーマーの一人。軍で覚えた航空機操縦技術で、まだ飛行機という機械を見たこともないような人々の住む田舎を飛び回って興行している。 しかし、すぐに人々は飛行機に慣れて、ただ飛んでいるだけで喜ぶのではなく、よりスリリングな曲技飛行を求めるようになる。危険は増し、何人もの仲間たちが死んでいく。かつて軍で上官だったニュートは今や政府の役人だ。彼はペッパーに航空機操縦士の免許を取って、危ない曲技飛行からは引退して法律を守って飛べと説教する。 食い詰めてハリウッドに流れてきたペッパーは、第1次世界大戦を舞台とした航空映画撮影のために飛行機を飛ばすことになる。映画にはかつて戦場での恐ろしい敵であり、同時に憧れの対象でもあったドイツの撃墜王・エルンスト・ケスラーがアドバイザーとして参加していた。 ケスラーに会い、ペッパーの魂に火が点(つ)く。戦後の現実にうんざりしていたケスラーもまた、ペッパーの中に「何か」を認める。2人が操縦する空戦シーン撮影の日。ペッパーとケスラーは、示し合わせたかのように、パラシュートを外し、飛行機に乗る。そして空戦シーンの撮影が始まる――。 2つの映画に共通するモチーフとは「時代の流れの中で失われていく事物が、映画撮影という虚構をつくり上げる作業の中で本物としてよみがえる」というものだ。「侍タイムスリッパ-」では、侍という存在と剣術という技術が映画撮影の中でよみがえる。「華麗なるヒコーキ野郎」ではバーンストーマーという職業であり、彼らの操縦技術だ。 ケスラーには実在のモデルがいる。第1次世界大戦でドイツのエースだったエルンスト・ウーデット(1896~1941)だ。映画中でペッパーが、自分のことと偽って語るケスラーとの戦場での邂逅のエピソードは、1917年6月6日にウーデットとフランスのエースであるジョルジュ・ギンヌメール(1894~1917)との間で起きた実話である。 ウーデットは戦後、曲技飛行士となり、ハリウッド映画でも華麗な腕前を披露した。1933年にナチス政権が誕生すると、彼はかつての上官でナチスの幹部となっていたヘルマン・ゲーリング(1893~1946)にスカウトされてドイツ空軍に入る。航空機総監となって自らテストパイロットとして新型機を操縦し、新兵器としての航空機を開発することになった。 しかし、生きるか死ぬかのスリルを愛し、飛行機と女と酒が大好きでデスクワークが嫌いなウーデッドは、権威的で官僚的なナチスと全くソリが合わなかった。陰湿な権力闘争に消耗して精神を病み、ついに自殺してしまった。 ウーデットの最期を知った上で、「華麗なるヒコーキ野郎」のラストシーンを見ると、浮かび上がるのはエンドマークではなく「無常」の2文字のような気がする。 先ほど「面白さの文脈を分析したり、類似作を探したりするのは、オタクかマニアかの悪い癖」と書いた。なぜ悪い癖かといえば、新しい作品を過去に自分が見知った作品に引き寄せてしまうことで、「ああ、アレと同じね」で思考を止めてしまい、新しい作品の持つ本質的な新しさを見過ごしてしまう可能性があるからだ。