1円でも稼ぐ!地獄を見たANAの新戦略
(3)見学ツアー 羽田空港の近くにある施設「ANA Blue Base」にやってきたのは30人ほどの小学生。校外学習だ。飛行機のことや航空会社の仕事を身近に感じてもらおうと始めた見学ツアー(大人1000円、中高生800円、小学生500円)。客室乗務員の訓練や、機体の点検や修理を行う整備士の訓練なども見学できる。このツアーが始まったのは2021年12月。2022年は約1万人が参加するなど、なかなか予約が取れない人気となった。 芝田が社長に就任して1年半。ANAホールディングスは2023年上半期、過去最高の営業利益を達成した。乗客が戻ってきただけでなく、全社員が一丸となって始めた新ビジネスがあったのだ。 「将来的に違う波が来た時も航空以外の分野でサポートしていこうじゃないかと。2025年度までに(非航空事業の売り上げを)最低4000億円には持っていきたい」(芝田) グループの年間売り上げは約2兆円。その5分の1の規模にまで、航空以外のビジネスを拡大するという。
今は貧しくても将来は有望~全日空とともに歩んだ人生
ANA本社の社長室。芝田があるものを見せたいと案内してくれた。壁に「現在窮乏、将来有望」の書が掛けられている。創業メンバーが口癖のように唱え、代々受け継がれてきた言葉だ。 「これが我々の創業以来掲げてきたチェレンジ精神。創業期というのは窮乏だったんです。本当にいつ潰れるかわからない会社だった」(芝田)
ANAは1952年、日本初の純民間航空会社「日本ヘリコプター輸送」として誕生。当時は資材の輸送や農薬の散布を行う小さな会社で、従業員は約30人、ヘリコプターを2機持つだけだった。 1958年に「極東航空」と合併し、全日本空輸が誕生。しかし当時は、国際線を飛べるのは日本航空だけで、全日空は国内線のみだった。 ちょうどその頃、鹿児島県の離島、加計呂麻島(かけろまじま)という小さな島で、芝田は生まれた。小学5年生の時、教師をしていた父親の転勤で奄美大島へ移り住む。そこで初めて飛行機を目にする。 「YS-11が飛んでいた。全日空です。奄美大島には全日空が飛んできていた」(芝田) 全日空の飛行機が芝田の心に強く残った。 その後、東京外国語大学中国語学科に進学。学業と空手に打ち込んでいた3年の時、大学の掲示板で、北京の日本大使館職員を募集するポスターに目が留まった。芝田は大学を休学し、2年間、北京で働くことにした。 ある日、北京の空港で全日空の飛行機を目にする。国際線がないはずの全日空。当時、まだ定期便は飛んでいなかったが、チャーター便の運行が始まっていたのだ。 「私が鹿児島から東京に受験などで乗って行った飛行機はやはり全日空なんです。鹿児島県民にとっては全日空が全てなんです」(芝田) 運命的なものを感じた芝田。やがて「国際線の就航に自分も役に立ちたい」と思うようになる。帰国した芝田は、1982年、大学を卒業すると全日空に入社。国際部に配属となり、国際線の就航に奔走した。