日本育ちの娘たちを全額奨学金で米国名門大学へ(1) 子どもたちを英語の世界につなぎたい
東京・新宿の老舗レストランのマダム・加藤暁子さんは、日本生まれ・日本育ちの娘2人を幼いころから日本語・英語のバイリンガルに育てました。そして、2人は日本の中学・高校を経て、授業料と寮費の全額が返済不要の奨学金を得て、米国の名門大学に進学を果たしました。「子どもをバイリンガルに育てたい」「グローバルに活躍できる人材にしたい」とお考えの保護者の皆さんに、加藤さんが自ら、子どもたちと経験してきたことや子育てのさまざまな工夫やノウハウをつづりました。5回にわたってお伝えする、今回はその第1回です。
なぜ、私は子どもをバイリンガルに育てる決意をしたか?
「ママ、バイリンガルに育ててくれたことにほんとうに感謝してる!」 最近、2人の娘たちからそう言われます。 「小さなときからいつも『英語が話せるんだね』って、うらやましがられてきたし、アメリカの大学に留学してもネイティブだと言われる。帰国子女でもない、富裕層の出身でもないことに、ほんとうにいつもびっくりされるんだよ。ママたちの努力や創意工夫のおかげだってわかってる。ほんとうにありがとう!」と――。 「子どもたちをバイリンガルに育てる!」 私がそう決意したのは、長女が生まれたときでした。私は祖父母の代からロシア・ウクライナ料理のレストランを経営する家庭で育ちましたが、英語など外国語が身近だったわけではありません。大学生になるまで、海外に行ったこともありませんでした。 そんな私が「なんとしても子どもをバイリンガルに育てたい」と思ったのは、学生時代のくやしい経験があったからです。 1988年、私は玉川大学を卒業後、アルバイトでためた200万円を持って、ニューヨークへの憧れだけでアメリカに渡りました。ニューヨーク大学(NYU)付属の英語クラスを受けながら、新設されたばかりで定員に満たなかったホスピタリティー・マネジメントの学部を見つけ、運よく9月から大学院生活を始めました。
米国の大学院と職場で「英語力不足」を痛感
でも、期待に胸をふくらませて臨んだ最初の「フードサービス・マネジメント」の講義でショックを受けました。教授が話す英語を聞き取れない、ノートもまったく取れないのです。気の遠くなるような90分でした。講義後、そのことを教授に伝えに行ったときには涙がぽろぽろ出てしまいました。 教授は「ノートは周りの学生に見せてもらえばいい、教科書をじっくり予習してくれば、授業はわかる」と言いました。でも、アメリカの授業は、特に大学院レベルでは、その分野の知見をディスカッションで共有するなど参加型で、グループワークも多く、英会話が不自由では、ちっとも貢献できません。そして、膨大な量の教科書を毎週読み込み、ノートを作っていかなければなりません。それまで勉強らしい勉強をしてこなかった私にとって、人生初めての勉強づけの毎日が始まりました。 クラスメートは、職場から教室に駆けつけて、授業が終わればまた職場か家庭に駆け足で戻っていくプロフェッショナルばかり。英語のしゃべれない私のことをかまってくれる人は、同じ苦労をしているわずかな留学生だけでした。 それでも、2年間の悪戦苦闘を続けた結果、ホスピタリティー・マネジメントの修士号を取得し、卒業後は晴れてニューヨークのホテルで日本担当セールスマネジャーの職に就くことができました。仕事はとてもやりがいがあったものの、社内では会議の場や現場スタッフとのコミュニケーションなど、英語ができないことで非常に肩身の狭い思いをしました。ビジネスで対等に渡り合うには、生半可な英語力ではだめだ、と痛感したのです。