春高バレー"不戦敗"から4年 連覇が途絶えても、川村樹生が忘れない感謝「たくさんの人たちが『東山のバレーが大好きだ』と」
連覇の夢が途絶えた中でも、改めて受けた感謝
それでも前向きに乗り切れた一つの理由は、東山が春高連覇に挑戦できる唯一のチームだったことだ。攻撃展開をより多彩にすべく、ミドルブロッカーの川村にも得点力の向上が求められ、日々の練習から豊田充浩監督や松永理生コーチの厳しい指導が続いた。特に戦術面を担う松永コーチからは質、スピード、精度といずれも求められるレベルが高く、「大げさじゃなく毎日泣きそうだった」と川村。練習で培った成果を最高の形で発揮したのが春高の初戦、東海大相模(神奈川)との2回戦だった。 「京都予選ではミドルが全然決まらなくて、フルセットの末にやっと勝った。それからずっと『ミドルが取れへんかったら勝負できないぞ』と言われ続けて、春高まではずっと不安だったんです。でも初戦の序盤でそれまでなかなか決まらなかったクイックが、バーンと気持ちよく決まった。やっとここまで来た、と思えて、めちゃくちゃ楽しかったです」 だがその翌日、東山は3回戦に臨むことなく不戦敗を余儀なくされた。突如終わった連覇への夢。今でも「あの時のことを思い返すと苦しい」と語るが、苦しさの中で改めて受けた感謝もあったと振り返る。 「自分たちが知らないところでも、たくさんの人たちが『東山高のバレーが大好きだ』と応援してくれて、メッセージを送ってくれたと聞きました。僕は中学も強いチームではなかったので、2年で日本一になって『おめでとう』と言われた時もうれしかったですけど、試合に出られなくなってからも『これからまた頑張ってね』と言ってくれる人がこんなにたくさんいるんだ、と。すごく、励まされました」
「自分だけでもがむしゃらに」の思いがケガに
卒業後は関東1部リーグの日大へ。変わらず続くコロナ禍の苦しさに加え、高校とは違う環境に戸惑う日々も続いた。 「部員の数も高校と比べると一気に増えて、それぞれ目指すバレーやモチベーションも違う。僕は高校で求められる技術や戦術のレベルがすごく高かったので、正直に言うとギャップもありました」 川村のように全国優勝が目標で、強豪と言われる学校で実際に春高を制した経験を持つ選手もいれば、全国大会など程遠いチームで、でも好きなバレーボールをこれからも続けていきたいと考えて入部する選手もいる。将来の目標もさまざまで、SVリーグや日本代表といったバレーボール選手としてのキャリアアップを望む選手もいれば、バレーボールは学生まで、と考える選手もいる。 同じチームメートとしてともに過ごしながらも、自分の当たり前が周りも同様かと言えば、そうではない。「もっと練習したい」と思う川村に対し、「これから授業があるから」と部活中に抜ける選手もいる。学生なのだから学業を優先するのは当然だが、「大学でももっとうまくなりたい」と臨んで関東1部リーグに進んだ川村からすれば歯がゆさもある。 「だから余計に、せめて自分だけでもがむしゃらにやり続けよう、と思って。気づかないうちに、無理してしまったんだと思います」 大学2年の秋季リーグを終えた後は、すねの疲労骨折でバレーボールどころかジャンプすることも走ることもできなかった。全体練習に参加してプレーができるまでに半年間かかった。大げさではなく「もうバレーボールができなくなるかもしれない」と考えるほど、ナイーブな時期もあったが、同期や仲間たちの姿を見れば再び気持ちも高まった。まだ、大学生活もバレーボール選手としての可能性も終わったわけではない。目指す目標に近づくには自分次第だ、と改めて思い返し、ケガから本格復帰を遂げてからは食生活やトレーニングを見直した。 「リハビリをしながらトレーニングについて勉強したり、寮の食事もバランスを意識するのはもちろん、まずは体の土台を大きくするために量を増やしたりして、ケガをしない体づくりを意識するようになりました。『もっとやらなきゃ、これだけじゃ足りない』と思って自主練習を長くやりすぎた分の負荷もあったので、とにかく毎日与えられたメニューをその日できる全力で取り組む。同じ練習でも取り組み方を変えれば、得られることはたくさんあると気づいた時、高校時代に理生さんから『考えてバレーをしなさい』と言われ続けた意味を、改めて実感しました」