「展覧会の時代」の幕開けとキュレーションの功罪。1969年12月増刊号 特集「現代美術家辞典」
「展覧会の時代」の幕開けとキュレーションの功罪 日本初の本格的な国際展「人間と物質」が開かれたのは1970年のことだった。その前年に刊行された本号には、同展を企画した中原佑介による記念碑的な評論「《展覧会の時代》とは何か?」が収められている。「人間と物質」の準備と並行して書かれたこの評論には、批評家としての中原とキュレーターとしての中原の葛藤が表れている。 1960年代を振り返ると、それはまさしく「展覧会の時代」だった。従来の美術史は作家や作品を軸に展開してきたが、60年代になると、美術の歴史は展覧会=キュレーションを軸に語られるようになった。その功罪に目を向けていかなければならない──これが中原の問題提起の大枠である。 いまでこそ「キュレーション」という概念は浸透しているが、それが社会に普及し始めたのがこの時代だった。昨今は批評家の不足が嘆かれるいっぽうで、キュレーターの数は(その志望者も含めると尚さら)飽和している。キュレーターこそが、かつて批評家が担っていた同時代的な影響力を行使できる存在となったからだ。 そもそも批評家として活躍していた中原が、キュレーターとして同時代への批評を行使した取り組みが「人間と物質」展だった。しかしそこで見落としてはならないのが、先述したように中原自身がその功罪について当初から指摘していたことである。美術は展覧会という制度と不可分であるのか、展覧会の限界とは何か、美術をつくる主体が美術館であってよいのか──中原の問題意識はこのようなものだった。 確かに、キュレーションにまつわる問題は現代でも絶えることがない。キュレーターとアーティストの非対称性を利用したハラスメント、キュレーターが不祥事を起こしても引責なく済まされてしまう構造的問題、キュレーションの物語性が強すぎる展覧会が「発見の場」でなく「確認の場」になってしまう鑑賞の阻害。これらはキュレーションの功罪における「罪」の部分であるが、いずれもその始まりは中原の指摘に遡ることができる。 そのいっぽうで決して数は多くないが、こうした状況を逆手に取った実践も存在する。そのひとつが、アーティストによるキュレーションだ。美術の歴史が「作品」でなく「展覧会」を軸に語られるようになったのと同時に、まるで展覧会のような作品をつくるアーティストの実践が生まれたのだ。松澤宥の《荒野におけるアンデパンダン′64展》(1964)はそのひとつ。「表現」のみならず「運営」に着目することで見えてくるその重要性については、 本連載29回でも詳しく述べた。キュレーションがはらむ問題の「回答例」に関心のある読者は、そちらも併せて参照してほしい。
文=原田裕規