町工場を“しぶしぶ継いだ”女性社長の挑戦、葛藤、馳せる未来
ウイングアーク1stのビジネスカンファレンスにて開催された、「自由な発想で未来を探索する町工場の試行錯誤」というセッション。家族経営の町工場に生まれ、やむなく経営者となった2人の女性経営者から、工場を変革する中で経験した苦悩や葛藤が語られた。 【もっと写真を見る】
ウイングアーク1stが10月から11月に開催した「UpdataNOW24」では、「未来試行」をテーマに様々な領域でのビジネス変革について語られた。 本記事で紹介するのは、東京開催の「自由な発想で未来を探索する町工場の試行錯誤」というセッション。家族経営の町工場に生まれ、やむなく経営者となった2人の女性経営者から、工場を変革する中で経験した苦悩や葛藤をどう乗り越えたかが語られた。 登壇したのは、ヨガインストラクターとの2足の草鞋で工場を経営するトミー機械工業の新本加奈氏、そして、工場をリノベーションしてミュージアムや哲学カフェを運営するフジタの梶川貴子氏だ。 トミー機械工業 新本社長:一度は逃げ出した社長の継承、ヨガインストラクターとの二足の草鞋で取り組む工場DX トミー機械工業は、神奈川県横浜市に拠点を構える「プラスチックフィルム」の製造装置やリサイクル装置を製造する機械メーカー。社員数20名ほどの町工場だ。顧客となるプラスチックフィルム加工メーカーは100社以上あるが、それを支える機械メーカーは国内5社程度で、「一社でもなくなると大変なため、産業全体が発展するよう使命感を持ってがんばっている」と新本氏。 新本氏は、2021年10月に3代目社長に就任。祖父が1967年に創立した工場を引き継いだが、約10年間悩みに悩んでの決断だったという。新本氏は、家族経営の息苦しさから2007年に一度退職して、ヨガスタジオを開業。工場には業務委託で関わり続けたが、ヨガインストラクターの仕事を主軸としていた。そんな中、後継者であった兄が急遽工場を辞めることになった。 「その頃、私はまだ30代。会社には負債もたくさんあった。結婚にも影響するかもしれない。一度は『会社なんて継ぎたくない!』と逃げ出しました。ただ、私にはヨガの仕事もあり、交友も増えて他業種でもやっていけるように。会社から離れて経験値を高めたことで、何をやっても大丈夫という発想になって、覚悟を決めることができた」(新本氏) いざ新本氏が会社を継ぐと、工場は多分に漏れず“超アナログ”な環境だった。パソコンは5人で1台を共有で、「パソコン空いたよ!」という声が響いていた。新本氏は想像以上のレガシーさにびっくりして、慌てて1人1台ずつパソコンを配備した。 さらに、令和を生き抜く工場に生まれ変わるべく「トミー魅力化プロジェクト」を開始。社員の士気があがるように、“社内外で魅力的に感じる会社”を目標とした。そのため、まずは、オフィス家具や更衣室、ロビーなどを刷新して、働きやすい環境づくりに注力した。 IT化も急ピッチで推進した。スケジュール管理やプロジェクト管理、名刺管理などを導入して、スマホでも仕事ができるように整備。クラウド化も進め、マネーフォワードを採用して、勤怠、会計、ビジネスカードであるPay for Businessを利用、特に経費精算は劇的に楽になった。今はデータ活用を見据えて、プロッターにより手書きの図面のデータ化も始めている。 若手社員4人からなるDXチームも発足して、高齢社員をフォローできる体制も築いた。このDXチームを中心に、社員の自立的な行動を推奨する「ボトムアップ活動」もスタート。「先代の頃には、社員が自身の意見を言えるような風土がなかった」(新本氏)といい、間違っても良いので、皆が能動的に工場を引っ張っていけるよう模索中だ。 こうして社長就任後、怒涛の勢いで工場の変革を進めた新本氏。一方で今でも月に6日ほどは、ヨガインストラクターの仕事も継続しているという。工場でも、社内外の交流の場としてヨガイベントを開催。「とにかく交流して、一緒になって人生を楽しむことが大切」と語った。 フジタ 梶川社長:自分には製造業合ってないのでは?から始めたミュージアムや哲学カフェの運営 続いて変革のあゆみを振り返ったのは、フジタの社長である梶川氏。フジタは富山県高岡市の総合金型メーカーであり、金型の開発から加工までを一気通貫で手掛けている。2025年に50周年を迎える、社員17名の町工場だ。 梶川氏の場合は、元々はアパレル業界で働いていたが、20代の頃に強制連行で工場に戻され、2010年から代表取締役を務めている。「当時は3日で辞めたいと思ったが、結局30年以上いる」と苦笑した。 まさに工場のイメージ通りだった「おっちゃんたちがタバコを吸いながらパチンコの話をしている」という現場が嫌だった梶川氏。まずは、5S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)活動や社内OJT、有資格取得支援、ISO9001取得など、製造業としての環境づくりや教育から始めた。 その後、リーマンショックで手痛いダメージを受けた後、梶川氏は、「何か新しいことをやらなきゃいけない」という漠然とした思いでイノベーションスクールを受講する。同スクールで、「製造業や金型、今の環境は合ってないのでは?」と自身を掘り下げていたった結果、行き着いたのがミュージアムの運営だった。 クラウドファンディングを活用して、第二工場をリノベーションし、2016年に“メタルアート”のミュージアムである「FACTORY ART MUSEUM TOYAMA」を開設。オープニングセレモニーをして、メディアも呼んだが、いざ蓋を開けると富山の工場団地には誰も来ない。それからは、セミナーや企画など、やれることは全部ミュージアムで開催して、認知されるための活動を3年ほど続けた。 ミュージアムが落ち着き、さらに“新しいことをやらなきゃ”と始めたのが「哲学カフェ」である。たとえば“お金ってなんだろう?”といった形で、普段考えないことを掘り下げ、議論から創出につなげるトレーニングの場であり、2019年末から70回以上開催してきた。社内でも、年1回3時間かけて哲学カフェを開いて、自立型の人材育成につなげている。 こうした町工場らしからぬ施策に平行してIT化も推進してきた。新しいサービスを知ったらひとまず1アカウント作って試してきた。コロナ禍では、VR工場見学を開始したり、工場のIoT化に取り組んだ。2022年には小さな旋盤加工の会社を買い取り、これまで実践してきた5S活動やDX推進をアウトプットすることも始めた。 「ミュージアムを立ち上げたことは、色々なジャンルの人達と知り合うきっかけになった。そういった人達の知恵やネットワークを生かして、(社員が複数の業務をこなせるようにする)“多能工”から“多脳交”へ移行することを目指している。富山県のどこにあるか分からないようなミュージアムで、いろいろなイノベーションを立ち上げて、結果、関係者が楽しく過ごせたらいいなと思っている」(梶川氏) 発想の転換が社長就任の踏ん切りになった新本氏、居場所作りのためにITを武器にした梶川氏 最後に、モデレーターを務めたウイングアーク1stのデータのじかん 主筆である大川真史氏から、質問が投げかけられた。ひとつめは「最も苦悩・葛藤したこと」だ。 新本氏がもっとも苦しんだのは、社長を就任するかどうか悩んだ10年間である。父親からは「会社を継がなかったら家族はどうなるんだ」と半ば脅しのように迫られ、ドラマのようなドロドロした場面も経験したという。「社長になることも糧にすれば、自分の人生も豊かになるのではないかと発想を切り替えたのが大きかった」と語った。 梶川氏は、首根っこを掴まれ会社に入ったあと、すぐに父親が入院。荒れてしまった現場で職人からキツイ言葉を浴びせられるが、なにより逃げ場がなかったが辛かったという。「ただ、現場を見渡すとまだパソコンがない時代。ITを身に付ければイニシアティブが取れるのはないかと、居場所作りのためにパソコンに触れるようになった」と振り返る。 続いては、「社長就任後の会社のもっとも大きな変化」だ。 新本氏が実感したのは、社員が笑顔で仕事をするようになったこと。IT化で社員の連携がスムーズになったことで、助け合えるようになったことが大きかったという。そんなトミー機械は、2024年1月、「トミーキカイ」に社名を変更する。機械だけではなく機会も提供する企業を目指すべく、テレビプロデューサーであった妹も加わり、新規事業の立ち上げを予定している。 梶川氏は、旋盤加工のレイズアドヴァンスを買収することで、週に2回会社にいない日が出来たことで、「社員が自立的に育ってきた」という。「これにより、これまで以上に大きな変化が起こるのではないかと期待している」と締めくくった。 文● 福澤陽介/TECH.ASCII.jp