〈大分県立美術館〉で開催! 竹工芸をアートに昇華した生野祥雲斎の軌跡。
竹工芸の史上初の人間国宝となった、生野祥雲斎(しょうの しょううんさい)をご存知だろうか。今冬、作家の生誕120年・没後50年に合わせ、作家の創作の全貌に迫る展覧会が〈大分県立美術館〉でスタートする。 【フォトギャラリーを見る】 元来、農閑期に農民が手作りし、台所や農作業の道具として日本の暮らしに息づいてきた竹細工。その歴史に造形芸術としての新たな世界を切り開いたのが、生野祥雲斎だ。大正から昭和の時代に「竹」という素材の可能性に対峙し、高みを求めた作家の創作の軌跡を辿る本展は、時代を超えて放たれる豊かな創造性と、限りないものづくりの可能性を現代の私たちに語りかける。
真竹に恵まれ、竹工芸が盛んな大分県別府市に1904年に生まれた生野祥雲斎。画家に憧れていたが、体が弱かったこともあり美術学校への進学を断念せざるを得ず、19歳で竹工芸の道へ進む。唐物様式の高級花籠にこだわり、数々の賞を獲得していた地元の若き籠師に師事し、鍛錬を積むと、わずか2年で独立を果たした。 その後10年あまり、師匠のように精巧で緻密な作品で才能を高く認められていた彼に、転機が訪れる。工芸家、藤井達吉が指摘した「うますぎる、竹が死んでいる」という当時の自信作への評価が、作家の生涯を貫く創作の指針を暗示する。「竹を生かすとはなんなのか」を自らに問い続ける、祥雲斎の類稀なる才能を開花させる長い道のりの始まりだった。
生野祥雲斎の作風は生涯を通じて幾度も変化を遂げる。技に走った未熟さを痛感した30代から工芸展へ挑戦を繰り返すも落選が続き、迎えた1940年代。《時代竹編盛籃 心華賦》に代表される、縦の線だけで構成する櫛目編を主体に、清らかさや弾力という竹の特性を活かした作品が入選を果たす。が、まさに竹芸家として意欲あふれる時期と重なる戦争末期に徴兵され、生還。故郷への道すがら見た家々の灯りに、「これからは自分の好きなことをして生きる」決意をしたという逸話が残る。