特攻隊長ですら恐怖を覚えた米軍の調査 真実を述べるために証言台へ~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#55
太平洋戦争末期の石垣島で、墜落した米軍機の搭乗員を処刑したとしてBC級戦犯に問われ、死刑になった幕田稔大尉。米兵3人を殺害した石垣島事件では、幕田含め全部で7人に死刑が執行された。山形市出身、剣道四段の達人で海軍の特攻、震洋隊の隊長だった幕田大尉は法廷の証言台でも軍人らしく毅然とした態度で事実を述べていたー。 【写真で見る】死刑を宣告される幕田大尉と見られる男性
幕田大尉は「明確に事実を述べた」
幕田稔大尉がスガモプリズンに入所したのは、1947年3月14日。3日前に逮捕の指令が出て、勤め先の北海道から連れてこられた幕田大尉は、GHQに接収されていた明治ビル(現・明治生命館)で取り調べを受けている。石垣島事件の戦犯裁判は。この年の11月26日から始まった。4ヶ月に満たない審理が行われて、翌年の3月16日に判決が宣告された。 法務省が1964年に石垣島事件の関係者に聞き取り調査をした記録が、国立公文書館に残っている。宮崎県在住の元二等兵曹が調査に応じていた。被告たちの法廷での証言態度の中に幕田についての記載があった。 (二等兵曹の面接調書) 特攻隊長、幕田大尉は長い証言を行い、明確に事実を述べた。幕田大尉は、精神的には疲れていた。検事は、そこにつけ込んで、ミスを作らせ、証言価値を衝こうとしたが、幕田大尉は自身が承知している範囲は明確に一切を証言してくれた。 石垣島事件の戦犯裁判では、石垣島警備隊の井上乙彦司令ら上官たちが命令系統を明瞭にしなかったために、処刑実行者たちが自主的にやったような筋書きになっていた。米軍の調査官がそういう筋書きを作って、それに沿うように被告たちから調書を録り、それを検事側の証拠として提出していたということもある。そのため、共同謀議で41人に死刑判決という異常な事態になった。 〈写真:死刑を宣告される幕田大尉と見られる男性(米国立公文書館所蔵)〉
米軍調査官の暴行 当時は「生命に対する危険」
では、幕田大尉は法廷でどんな証言をしたのか。 外務省の外交史料館が所蔵している「本邦戦犯裁判関係雑件 横浜軍事裁判関係 『公判概要』綴(石垣島の部)」に幕田大尉が述べた要旨が載っていた。 幕田大尉は1948年1月27日(火)から5日間に渡って証言台に立った。初日の27日は田口泰正少尉の尋問が終わってからだったので、書面の確認だけで終わった。本格的な尋問は翌28日からだ。 <公判概要 1948年1月28日(水)> (幕田への検事の反対尋問 答弁要旨) 検事提出の第17号証及び第18号証は自由に作られたものではない。前者は明治ビルで作られたものであるが、ダイヤー調査官から首を絞められ、顔を叩かれ(これはかすった程度)足ですねを蹴られた。後者は3月22日頃から4日間、取り調べられた時のものであるが、この時もダイヤー調査官から腕をつかんで烈しく揺すられ、靴先ですねを蹴られた。明治ビルで首を絞められた時は、一時的ではあるが息苦しかった。生命に対する危険があったとは今は思わないが、当時は感じていた。 弁護側提出の第34号証が、検事に述べていることと違っているのは、当時は北海道から三昼夜ほとんど睡眠せずに来て、朝6時東京着、すぐに明治ビルに出頭し、頭がボンヤリしていたところに、ああだろう、こうだろうと強要されたためである。 石垣島事件を担当したヴァーネル・ダイヤー調査官は、ほかの被告にも暴行を加えている。特攻隊長の幕田大尉ですら生命の危険を感じる程だから、威圧感も相当なものだったと想像する。 〈写真:石垣島事件の法廷 右側の端が幕田大尉(米国立公文書館所蔵)〉