特攻隊長ですら恐怖を覚えた米軍の調査 真実を述べるために証言台へ~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#55
過去にも”斬首”の経験
(幕田への検事の反対尋問 答弁要旨) 自分は前に斬首の経験はある。しかし自分が本事件にて選ばれた理由は分からぬ。自分は志願したのではない。司令との問答内容は私が「司令、参りました」という意味のことを言うと司令は「幕田大尉、来たか」と言う意味のことを言われたので、「はい」と言うと司令は「今晩、処刑があるからお前が初めに斬れ」と言う意味のことを言われたので、自分は「はい」と命令を承知した。 自分は士官室に居た。他の者には何も言はぬ。処刑には自分の軍刀を使った。司令に会う前に斬首のことは知らなかった。司令の命令に対し、異議は申し立てなかった。士官室で反対意見は何も聞かなかった。 〈写真:戦犯たちが収容されたスガモプリズン〉
自分は斬りたいとは思わなかった
空襲後、本部に集まる慣例はなかった。他に志願者があるか否か知らなかった。自分は斬りたいとは思わなかった。田口の斬ることは士官室から処刑場に向かって出る少し前に聞いた様な記憶がある。 命令であるから、しなくてもよいように努力する余地はない。斬首志願者の有無を訊ねた事はない。当時と現在では状況が異なるので、当時、司令の命を断り得たか否か分からぬ。自分の選ばれた理由は分からぬ。午後9時頃、本部で司令から命ぜられ、初めて処刑の事を知った。司令からは最初にやるように言われた。 幕田大尉は繰り返し、自分が志願したのではなく「司令から命令があった」と述べた。 〈写真:石垣島事件の法廷 被告の人数が多いため傍聴席まで埋め尽くした(米国立公文書館所蔵)〉 朝9時から始まった幕田大尉への尋問は、夕方4時半の閉廷まで続いた。そして、また次の日も朝から尋問が続いたー。 (エピソード56に続く) *本エピソードは第55話です。
連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。 筆者:大村由紀子 RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。