<連載 僕はパーキンソン病 恵村順一郎> 「核兵器のない世界」をいつか見るために 戦後80年へ僕たちがなすべきこと
パーキンソン病は、脳の神経細胞が減少する病気です。ふるえや動作緩慢、筋肉のこわばりといった症状があり、便秘や不眠、うつなどがみられることもあります。連載では、ジャーナリスト恵村順一郎さんが、自らの病と向き合いながら、日々のくらしをつづります。
【エッセイ編・病中閑あり】その20 被団協にノーベル平和賞
10月11日夜、夕食をとりつつ某民放の情報番組を眺めていたら、速報が入ってきた。 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞に決まった、という。 翌朝、記者時代に愛用していた三菱色鉛筆の「だいだいいろ」を久しぶりに取り出し、線を引きながら朝日新聞を読む。 39歳。ノーベル委員会の若き委員長、ヨルゲン・ワトネ・フリドネス氏が読み上げた授賞理由に共感する。 広島、長崎への原爆投下から〈80年近くの間、戦争で核兵器は使用されてこなかった。日本被団協やその他の代表者らによる並外れた努力は、核のタブーの確立に大きく貢献した。だからこそ、この核兵器使用のタブーがいま、圧力の下にあることを憂慮する〉とある。 手前味噌をお許し願いたい。被団協と朝日新聞には似たところがあると僕は思う。 核兵器廃絶を唱えれば「理想論」「夢物語」と切り捨てられることがある。それでも被団協のメンバーは自身の被爆体験を語り、核廃絶を真正面から訴え続ける。 メンバーの〈唯一無二の〉〈たゆまぬ努力〉が、〈世界中に幅広い反核機運を生み出し、それを強固なものにすることに貢献してきた〉(授賞理由から)のである。 朝日新聞も同様の批判をしばしば受ける。現実はなかなか主張通りには進まない。それでもその主張がなかったら、日本政府はさらに右に傾いていたに違いない。
ヒロシマは、駆け出し時代の僕が所属した朝日新聞大阪本社の最重要の取材テーマのひとつである。けれど、僕自身は私的な広島訪問の機会はあったが、ヒロシマ取材の経験は残念ながらなかった。 大阪社会部では、夏が近づくと「知恵班」「体力班」と称する2つの班が編成される。前者はヒロシマ、後者は甲子園の担当である。 5年半の大阪在勤中、僕は毎年のように、というより毎年、甲子園を担当した。今でこそパーキンソン病で暑さに弱くなった僕だが、当時は体力派と見られていたようだ。 それでも、開戦半世紀の1991年冬には関連の連載記事の担当になった。激戦地ラバウルから生還後、現地の人々との交流を続けた漫画家水木しげるさん(1922~2015)、敗戦の年の東京に生まれ、反核・平和を訴え続ける俳優吉永小百合さん(1945~)らに取材し、記事を書いた。 退職後にもう一度、広島に行きたい。そして平和記念資料館や原爆死没者慰霊碑、被爆した文学者らの碑などを訪ねたい――。それが僕と妻との願いのひとつだった。