暗殺直前の龍馬が派遣を要請 信頼を寄せた財政再建のプロ“由利公正”とは
廃藩置県後の初代東京府知事 耐火性の強いレンガによる銀座の街づくりに取り組む
暗殺された龍馬の推薦もあり、由利は新政府に徴士参与として加わり、財政を担当します。1868(明治元)年、「五箇条の御誓文」草案の起草者になり、日本初の全国通用紙幣「太政官札」を発行しましたが、翌1869年には、明治政府参与を辞職。先祖の姓に改め、三岡八郎から由利公正と名乗るようになりました。 改名後、1871(同4)年には、第4代(廃藩置県後は初代)東京府知事に就任します。翌1872年2月に起きた銀座大火で丸の内、銀座、築地一体の東京中心部が焼失すると、耐火性に優れた抜本的な都市改造を目指し、銀座の街路拡幅や「銀座煉瓦(レンガ)街」と呼ばれたレンガ建造物の街づくりに取り組みました。また、1874(明治7)年には、板垣退助らと民撰議員設立の建白書(国会開設の要望書)を提出、まさに近代日本の礎を作った人物の一人だったのです。
文武両道に秀で、信念を貫いた
由利公正に関する逸話はほかにもあります。 陣笠陣羽織で着飾った青年藩士が城下を馬で疾走、鐘などを鳴らして馬をおどし、行く手を阻む町民・農民の若者たちと攻防を繰り広げる福井藩名物の「馬威し」の行事で、由利は19歳のときに優勝。松平慶永の目に留まるきっかけになりました。この優勝をねたんだ上級武士の子弟から切りかけられたときには、剣道、槍、西洋流の新式砲術でそれぞれ免許皆伝の腕前だった由利が、竹ざおを使って撃退した、という武勇伝が残っています。 一方で、幕末を代表する歌人・橘曙覧(たちばなあけみ)の門下生として短歌を学ぶという風流な一面も。太政官札発行のとき、「金貨通用の地である江戸(東京)では無理」と、反対した維新の十傑、江藤新平に対し、議論を拒否したら負けというルールで、立会人を置き、朝から夕まで連日議論。8日目に江藤が会場に姿を見せなかったため、由利の勝利となった、というように、信念は曲げませんでした。
“歴史秘話”満載、でも大河ドラマは“落選”
実は、こうした“歴史秘話”満載の由利公正を描いた「大河ドラマ」を誘致しようと、地元・福井県が動いていました。同じ福井の幕末の偉人でも、幕府政事総裁職を務め、幕末四賢候の一人、「明治」の元号を名づけた、由利の主である松平慶永や、安政の大獄で刑死した橋本左内の方が知名度は上ですが、「由利の構想は今日のわが国の目指す方向と一致する」と、明治維新150年に当たる次回2018(平成30)年の大河ドラマ実現を目指し、誘致運動を展開してきたのです。 しかし、残念ながら次回作は、同じ幕末・明治維新期で活躍した西郷隆盛の生涯「西郷どん(せごどん)」に決定。福井県は今後も誘致活動を続ける方針を示しています。大河ドラマでは主役にもなり、幕末ものの常連といえる坂本龍馬。NHKではなく、龍馬だったら、維新節目の年の大河ドラマには「是非、三岡(由利)を」と推挙したかもしれません。