『ヒロアカ』は徹底して「社会」を描いてきた。「ヒーロー」の存在に向き合い続けた物語の完結によせて
エピローグに宿るテーマ。戦いのあとの社会の歩み
長きにわたる戦いが決着した数日後を描く第424話が掲載された『週刊少年ジャンプ』の巻末コメントで、堀越は「結は短くが基本ですが倒してお終いができない漫画なのでもうしばし。タイトルに戻って」と書いた。かつ、劇中では「子どもの頃は戦いが終われば世界は自動的に平和になると思ってた けれど僕らの物語は終われない 戦いのあと僕らが明るい未来を示せるまで」という出久のモノローグが挿入され、第424話から最終話となる第430話まで、じつに単行本1巻弱のボリュームを費やして「明るい未来を示す」取り組みが描かれていく。 「教科書に載る戦いの後には必ず教科書に載らない混乱がある」との言葉を胸に、復旧活動に加えて治安悪化防止のために全国を回る姿が描かれたり、出久が生き残ったスピナーに死柄木の遺言を伝えたり、テレビでは「死柄木弔とはなんだったのか」という討論番組が放送されたりと「その後の社会の歩み」がさまざまな側面から映し出されるのだ。倒してお終いにしない――これもまた、従来の長期連載のバトル漫画とは一線を画す『ヒロアカ』の特徴であり功績といえるだろう。 本作のエピローグにおいて2つ、象徴的なシーンがある。 1つは、出久とスピナー、そしてお茶子の対話。スピナーは出久に吐き捨てる。「おまえたちはこれからも戦い続けるんだろう? そしていずれ死柄木弔も敵連合も忘れて笑うんだろう」と。それに対して出久は「心配しなくていいよ。一生忘れない」。また、皆に心配をかけまいと明るく振る舞っていたお茶子が出久の前で「ヒミコちゃん私のせいで死んじゃった」「もっと子どもの時に会えてたら違ったかなぁ!?」とトガの死を引きずっている姿も描かれ、戦いを終えても心の傷は残り続けるさまが示される。そもそも『ヒロアカ』は歴戦で負った傷を消さない(出久をはじめ、戦うほどに各キャラクターの傷が増えていく)という堀越のこだわりがあるが、徹頭徹尾リアリティをないがしろにしない。 もう1つは、最終決戦の裏で起こっていた出来事。家族から虐待を受け監禁されていた少年が脱出を成功させるのだが、大変な目に遭ったはずの皆が痛みを受け入れて笑っていたことで「何で 僕だけ こんなに‼」と暴走しかけてしまう。その際に声をかけるのはヒーローでなく、通行人の老婆。オールマイトの名ゼリフをもじった「もう大丈夫だからね “おばあちゃんが来た”からね」の言葉で少年は落ち着き、ヴィラン化しなかった――という顛末が描かれる。ちなみにこの老婆は街で見かけた少年時代の死柄木に対して手を差し伸べきれなかった悔恨を抱えており、かたちは違えど報われた格好となる。そして8年後を描く最終話ではその少年が雄英高校の生徒になった姿が確認でき、「ヴィラン発生率が激減してヒーローも少数精鋭化した」未来が映し出され、終幕を迎える。 従来のバトル漫画は「新たな敵が出現し、さらなる戦いに向かう」姿でフィナーレを迎えることも少なくない。しかし『ヒロアカ』はその可能性をにおわせたうえで、一市民がその芽を摘み取る解答を示す。ヴィランを単なる悪役という「装置」でなく、何らかの事情で道を分かたれてしまった「人間」として捉えているからこそだろう。 一方で、出久と塚内刑事の「どうすればこんな事なくなるんでしょう」「なくならんよ」との対話にある通り、根絶することはできないという現実も直視する。出久によって社会が良い方向に向かったのは間違いないが、人が人であり続ける限り、衝突は生まれてしまうもの。ゆえに、「形質差別をなくす」活動や、「個性カウンセリング拡張計画(個性による悩みを打ち明けられる機会を増やす)」など、よりよい社会に向かうための継続的な行動が描かれていく。 『僕のヒーローアカデミア』は「皆といつまでも いつまでも 手を差し伸べ続ける物語」という出久のモノローグで締めくくられる。対話を諦めず、理解を諦めず、他者に手を差し伸べ続ける存在――。10年間「ヒーロー」という存在に向き合い続けた同作がたどり着いた定義は、あまりにも美しく、どこまでも愚直。出久/デクの由来となった宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の精神を背負い、更に向こうへ(PLUS ULTRA)と向かう傑作として、この先も語り継がれ、次代へと紡がれていくことだろう。
テキスト by SYO / リードテキスト・編集 by 今川彩香