『ヒロアカ』は徹底して「社会」を描いてきた。「ヒーロー」の存在に向き合い続けた物語の完結によせて
社会が成したヴィランの存在と、対話を試みる主人公たち
この「社会」というキーワードは、設定だけでなく「ヒーローとは何か」という大きなテーマ、さらには「偏見や差別」「対話と相互理解」という内容にまで踏み込み、最終話付近で描かれた「憎しみの連鎖をどこで断ち切るのか」「真に平和な社会とは」という命題に帰結していく。 そのフックとなるのが、『ヒロアカ』におけるヴィランの存在だ。「世界中の未来を阻みたい」という野望を持ったオール・フォー・ワンや、破壊衝動を抑えられず「血と闘争」に生きるマスキュラーなどの極悪人は登場するが、本作におけるヴィランは「社会から孤立した結果、暴走してしまった」側面が強い。 ヒーローに憧れていたのに周囲の大人によってねじ曲げられた結果として生まれた死柄木や荼毘、愛情表現が他者を傷つけるものだったために誰にも理解されなかったトガ、異形の個性ゆえに迫害されたスピナーら――表面的な善悪二元論ではなく、突如発現してしまった「個性」に振り回される被害者として描かれるのだ。 そのため、出久や同級生のお茶子たちは、死柄木やトガらヴィランの凶行を止めようとするだけでなく、根本的な部分――なぜそうなってしまったのか、どうしたら止められるのかを考え、戦いの中で何度も「対話」を試みてゆく。 マスキュラーとの再戦時に出久がつぶやく「戦うことには変わりない…でもせめて心の奥底を」や、オール・フォー・ワンに人格を乗っ取られた死柄木にかける「泣いていた君を見なかった事にはしない」、お茶子からトガへの「ただ触れたい あなたの中にある悲しみに」「教えて…思った事…思ってきた事…全部!」などなど、ただ「戦う」だけではない対話のドラマが徹底して掘り下げられるのだ。その結果、バトル漫画の定石ともいえる「敵を一人倒しても、さらなる強敵が現れる」インフレを破壊する展開に最終的に向かっていくのが興味深い。 かつてはプロヒーローだったが、ヴィランに身をやつしたレディ・ナガンは、出久について「あいつは心をこじ開けるんだ 悪人にとって一番嫌な事をしてくるんだよ」と評する。「その面があまりに必死なもんだからついつい応援したくなっちまう」のだと。 もともと出久は個性を持たない「無個性」として生まれ、超常社会の中でマイノリティとして肩身の狭い思いをしてきた。 “平和の象徴”であるNo.1ヒーローのオールマイトは、出久が自らの危険を顧みずに同級生の爆豪をヴィランから救おうとした姿に胸を打たれ、自らの後継者として育成しようとするのが『ヒロアカ』冒頭のストーリーラインだ。そのあとオールマイトは、宿敵オール・フォー・ワンとの死闘で力を使い果たし、事実上の引退状態となる。象徴の不在によって世の中に不安が広がるなか、死柄木たちが台頭してさらなる混乱が訪れてしまう。 つまり、ヒーローたちには目下「死柄木たちを止める」というミッションがあるものの、倒したとて課題はまだ残っている。オールマイトという拠り所を失った状況で「みんなが笑って暮らせる世の中」は実現しないからだ。 では出久が2代目オールマイトを襲名するかといえば、本作はその結末を辿らない。彼は死柄木/オール・フォー・ワンとの最終決戦で個性を失ってしまうのだ。その代わりに、先に述べたレディ・ナガンの言葉に象徴されるように――彼の必死な姿を目撃した皆の心に勇気の灯がともされていく。「僕が最高のヒーローになるまでの物語」から「皆が最高のヒーローになるまでの物語」への変化――出久に薫陶を受けた各々が隣人愛を発揮し、他者に手を差し伸べることで孤立をなくし、社会全体からヴィランの存在自体を大幅に減少させていくのだ。