「会議資料はコピペ」平安貴族の呆れた“ぬるさ”…「庶民のための政治」をする気は全然なかった
NHK大河ドラマ「光る君へ」で一躍注目を集めた藤原道長。摂関政治の完成により権力の頂点を極めたことでよく知られていますが、東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏によれば、その繁栄の理由は「藤原道長という1人の人間の才覚など関係ない」といいます。 本郷氏が指摘する平安時代の政治体制の「ぬるさ」と、政治に対する貴族たちの呆れた姿勢とは。 ※本稿は、本郷氏の著書『日本史の偉人の虚像を暴く』から、一部を抜粋・編集してお届けします。
■中国から導入した「律令制」の実情 古代日本では白村江の戦いでの敗戦を契機に、中央集権国家として国力を高めるため、唐を範とした律令国家の形成へと舵を切りました。朝廷は中国に学び、律令制を取り入れていきます。 「律令」の「律」は刑罰の体系であり、「令」は政治の体系です。律令制の導入は、日本社会に体系だった法律が導入されたことを意味します。 しかし、中国から借りてきた律令には、当時の日本社会の実情にはそぐわないものも多くありました。そのため、古代日本の律令のなかには、実際には使われなかった法令があった可能性が高いのです。
特に平安時代には、法律で定められたことと実際の運用の間に、大きなズレがあったと思える点も少なくありません。 たとえば、「諸国条事定」というものがあります。これは何かというと、まず、朝廷では貴族による会議である仗議(じょうのぎ)や陣議(じんのぎ)、あるいは陣定(じんのさだめ)とも呼ばれるものがあります。上級貴族である公卿と四位の参議以上の議政官により、外交・財政・叙位・受領任命・改元などの重要な政務の審議が行われます。
いわば平安時代における朝廷の最高議決機関です。この会議に先立って必ず実施されるのが、「条事定」というものです。 とても難しい漢文で書かれたペーパーが配布され、そこには当時の都(京都)以外の諸国でどのような問題が起きているのかが指摘されています。そして、みんなで発言し対策を考えるのです。おおむね、3カ国ほどの問題を指摘するのですが、私は最初にこれを読んだとき、「平安時代の貴族も教養があって、やるべき政治をやっていたんだな」と感心しました。