「会議資料はコピペ」平安貴族の呆れた“ぬるさ”…「庶民のための政治」をする気は全然なかった
■藤原道長という1人の人間の才覚など関係ない この時代の政治とは、革新的な政策を次々に打ち出すのではなく、あくまでも貴族社会のなかの人間関係によって成り立っていました。 本来の意味での政治とは、やはりさまざまな政治方針の違いが提示されて、その上で独自の政治体制を確立するために互いに闘い、争うものだと思いますが、それが実際に行われるのは、先ほども述べたように、貴族に代わって、武士が台頭してきてからのことです。
平安時代には貴族同士の足の引っ張り合いのようなもので、政治が行われていたのですから、まさに「ぬるい」政治が横行していたのです。そんな貴族社会のなかで、「最強」の権力を有したとしても、高が知れていると思いませんか。 そもそも藤原氏の摂関政治自体、自分の一族に「娘」が生まれなければ成り立たない。つまり、偶然が大きく作用するのです。事実、道長と息子の頼通の代に最盛期を迎えたはずの藤原摂関家は、次代には院政に取って代わられ、急速に衰えていきました。となると、道長の代で最大の権力を有することができたのは、もはや藤原道長という1人の人間の才覚など関係ないということになるでしょう。
彼自身が何か特別なことをやったというよりも、皆と同じような政治活動を行っているなかで、“たまたま”強大な権力の座に就いたということに過ぎないのです。それゆえに、道長でなくライバルの伊周や隆家が権力の座にあっても、大勢に影響はなかったことでしょう。
本郷 和人 :東京大学史料編纂所教授