『夜回り先生』水谷修さんが語る、子育てや教育の原点「待つこと、そして、聞くこと」
シンガーソングライターの川嶋あいさんがパーソナリティーを務めるラジオ番組『明日への扉~いのちのラジオ+~』(ラジオ関西、毎月第1・2週日曜午後5時~)に、『夜回り先生』こと元高校教諭の水谷修さんと、シンガーソングライターの伊吹留香さんがゲスト出演。水谷さんが夜回り活動を行うきっかけを明かすとともに、悩みを抱える子どもたちにメッセージを送りました。 『夜回り先生』水谷修さんが訴える思い 「人は人を救えない。救いは、まず自分が動くことからしか始まらない」 「35年前までは受験校でバリバリの社会科の教員だった」という水谷さん。『夜回り先生』のきっかけは、定時制高校で教員をしていた友人の一言だったと明かします。 「どうしても会いたいというので会って話したら、『俺は教員を辞める。何のために学校に入ってきたのかよくわからない、暴力かナンパか(しかないような)そんな腐った生徒に、いい教育なんかできない』と。その瞬間にけんかになった。『ふざけるな! 腐った生徒なんかいるか! 腐られた生徒はいるだろうが、誰が腐らせた? 俺たち大人だろ? その子どもたちを生き返らせるのが我々教員の仕事じゃないか! もういい、俺が行く』。それで、自分から望んで夜間の定時制高校に行った」 そのとき、水谷さんが務めたのは、生徒数800人という全国最大の夜間定時制高校といわれた横浜市立港高校(2005年4月1日に閉校)。当時の夜間定時制高校は暴れまわっていた子どもたちの最後の教育のとりでだったという水谷さん。 「言うは易し、行うは難し」という状況でも、「その子たちをともかくなんとか学校に呼びたい、昼の世界に戻したい」という思いで始めたのが、夜回りでした。 「(夜の)11時から朝の4時くらいまで、子どもたちと話し込んだり、『戻ってこいよ、教室に』と。自分の生徒に声をかけている周りには制服を着た中高生、他の学校の生徒もいっぱいいる……もうめんどくさい、みんな俺の生徒だ!と、声をかけていった」ことで、水谷さんの名や行いが世に知れ渡っていくことに。 当初は高校名をとって「港の水谷」と呼ばれていたのが、新聞記者が「夜回り先生」という言葉を使いだしたことで、今では「夜回り先生」が水谷さんの代名詞的な存在となったそうです。 2000年からはリストカットで自らを傷つけてしまったり薬の過剰摂取などで「死に向かってしまう子どもたち」の問題にも直面。著書の出版するとともに、水谷青少年問題研究所をつくり、「ひとりの子も死なさない」という思いで、電話やメールで相談窓口を開設した、水谷さん。「電話は数えきれない、メールは延べ106万を超えた。かかわった子どもたちの数も105万を超えた」。 その一方で、心の病や薬物などで亡くなった子どもたちへの悔恨の思いが尽きないことも吐露。それでも、東日本大震災のときの被災者で、過去にリストカットするなど悩みを抱えていた少女が、水谷さんの言葉を糧に自ら立ち上がったという話しが届いたときには、水谷さんも勇気づけられ、研究所のスタッフも涙したというエピソードも明かしていました。 「みんな何か夢を持てれば変わるんだけど……」という水谷さん。「われわれ教員の一番の仕事は、『これができない、あれができない、だめだ』というのではなく、できるものを見つけて、その子が伸ばせるもの、少し知識とかいろんな栄養を与えてあげて、自ら芽生えさせ花咲かすのを手伝うこと。これは教員だけじゃない、親の仕事でもある」と語ります。 先日もある高校を訪問した際、「ウチの生徒はどうしようもない……」という話しがあったときには、「子どもを変えようと思ったら我々大人が変わるのが筋だ。それを忘れてもらっては困る」と一喝したそうです。 オンエアのなかでは、川嶋さんから、「私の友人たちの話だが、子どもが自分の思い通りにいかない態度や姿を見せられたとき、どうしてもイライラして怒ったり感情をぶつけたりしてしまうそう。また、子どもが何を考えているかもわからないとき、すごい質問攻めにして聞いて、でも何も話してくれない、みたいな状況になっているという。どうすれば……」という質問も。 これに対し、「待つこと。それが子育てや教育の原点」という水谷さん。教員時代の例を出しながら、頭ごなしに責めるような恐怖だったり、何かものをもらえるという利益で誘導するのではなく、(彼らが)話し出すまで待つことが大事だとコメント。「あとは、聞くこと。子育てがわかんなかったら、子どもに聞くんですよ。泣きながらでもいいから。(そうすれば)子どもが教えてくれる」と、話を聞く重要性も強調していました。 番組内では、「子どもの頃に不登校やひきこもり、自傷癖、摂食障害などを経験して、そんな経験があったからこそ水谷先生と出会うことができた」という伊吹さんが、自らの楽曲『明日への助走』を生歌で披露。川嶋さんも、「本当に言葉が突き刺さった」と感想を述べていました。 番組の最後に、川嶋さんから「今後どんな活動をしていきたいか」と問われた水谷さんは、「もうやりすぎている」と述べつつ、「夜のまちを回るのは、それが僕の人生そのものだから」と発言。「戦後の教育史のなかで、僕はたぶん日本で最も子どもたちを『殺した』教員だから。僕は亡くした子を『殺した』と思っている。僕を信じて、でも救い切れなかった……」という思いが、今でも夜回り活動、相談に応じる行動を継続する源になっているといいます。 そして、今、悩みを抱える人たちに、水谷先生は次のようにメッセージを寄せていました。 「人は人を救えない。だって、だれかにトイレに行ってもらったら、トイレに行かないですまないでしょ。だれかにご飯を食べてもらったらお腹いっぱいになるかといえば、ならないじゃないですか。自分の人生は自分の足で歩いていくしかない。その最初の一歩を、たとえば家の中にいる人間が、外に一歩出てくれれば、心を閉ざしていじめの恐怖で学校に行けなくなった子が一歩学校に入ってくれれば、そこからの手伝いはできる。救いは、まず自分が動くことからしか始まらない。それだけは覚えておいてほしい。(どうしようもない思い、悩みを抱えているなら)相談してほしい。それが私の仕事だから」 ※ラジオ関西『明日への扉~いのちのラジオ+~』より
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