「古道具」という死生観。沢山遼評「古道具坂田 僕たちの選択」展
「古道具」という死生観 「古道具坂田」の40年 坂田和實を店主とする「古道具坂田」は、古美術でも骨董でもなく、「古道具」という標語を掲げ、1973年、東京・目白に開店した。店は2020年に閉店し、坂田は、その2年後に亡くなった。 すでに用をなさなくなった古びた物を選び、売る。古道具坂田は、約40年間にわたり、それだけを続けた。考えてみれば異様なことかもしれない。なかにはゴミ同然のものもあった。坂田自身も、店の外に出ればそれはただのゴミであると語っていた。が、彼はゴミを含むそれらの事物を選び、「古道具」と名付け、顧客に売るという人生を選択した。 坂田は、その活動の軸に、たったひとつの基準を与えた。それが「美」と呼ばれるものである。まだそれらが使えるもの、文字通りの古道具であれば、そこに用途を付随させることもできたはずだ。しかし彼はそうしなかった。彼はそれが「美しい」とするほかに、それらの事物に対してなんの方便も与えることはなかった。 それが、一般の古道具屋や骨董・古美術商、あるいは古唐津のぐい呑みに入れ上げた青山二郎や小林秀雄ら骨董文士と坂田との大きな違いだった。いわば、ゴミのようなもの、打ち捨てられたものと「美」を接続することに坂田の40年間は賭けられていたと言ってよい。実際、かつて坂田の店舗で購入されたものは、(坂田由来であることが知られなければ)二束三文の値段でコレクターの手を離れていくことが必至であり、実際、すでにそうなりつつあった。市場がある以上は避け難いことである。また、若手アンティークディーラーたちに「坂田好み」が浸透した結果、古道具坂田の個性もいずれ見えづらくなるだろう。ゆえに、坂田が亡くなり、その生が閉じられて間もなく開催された本展は、坂田の審美眼、彼がものを選択するときのその美意識はいかなるものだったのかを検証する、重要な機会でもあったと言える。 事物に対する身体的な反応 この展覧会に並べられたすべてのものは、坂田の美意識によってだけ選択されたものであるという点において通底している。だからこそ、と言うべきだろう。その場には、坂田の事物に対する身体的な反応、その生理的な感覚が立ち込める。坂田の美は、このような彼自身の身体的な反応ときわめて密接に結びついているように見える。美はこの場合、彼の身体や精神のかすかな呼吸と連続している。坂田という存在がすでに不在となりながら、かえって彼の生理的な感覚が亡霊的に浮かび上がるようなこの空間に戸惑いもする。彼はこの感覚をただひたすら信じ、それを自分の店で扱い続けることをやめなかった。 それは、一般的な商売の原理とは反しているように見える。顧客の需要があり、それを供給するという図式は坂田の店には存在しない。彼はそれを反転させ、むしろ自分が選択したものを提示することに固執した。まずは彼が事物に照明を当て、その後、はじめて顧客は、そこに見るべきなにかがあったことを自覚することになるからだ。彼の店は、そのような意味で、彼の価値観を提示する場でもあった。それは、売れる、ことが自明ではない世界とも言える。 だが、それがもし彼一人の感覚や主観に閉じてしまうのであれば、つまり特定の個人が特権的に理解、享受可能なものであり、個々の共同体の内部での暗黙の合意のみによって持続するものであるとすれば、それは文化として、異質な他者にとって反復・再生産可能な知的体系、技術たりえない。中国での坂田展は、その意味で日本の古道具が文化たりうるかが試される機会でもあったと言える。本展はその意味で、いつか坂田と遭遇するはずの、まだ見ぬ異国の他者に送られた手紙のようなものとして機能しなければならない。 坂田の選んだものを見ると、時の侵蝕を受けてボロボロになり、朽ちて崩れかけた事物の多さに驚く。骨董の世界を多少見聞したいまでは、自らの価値基準に頑迷に従い、これらの物品を仕入れ、売ることがいかに大変だったのかもわかる。その活動には、素直に敬服するほかない。仕入れと販売にこそ、彼の凄みがある。その意味で坂田は、古道具屋であることを貫き、それ以上の存在意義を自らに与えようとはしなかった。このことは、あらためて確認しておいてよい。 余白とともにある事物の陳列 もともとこの展覧会は、会場となった中国・杭州にある天目里美術館の創設者である李琳が、坂田にもちかけたものであったという。坂田はその構想に同意したものの、彼の生前に展覧会の企画が動き出すことはなかった。今回、坂田の仕事を継承することに強く自覚的な美術家の青柳龍太がキュレーションを担当したのは、その意味で坂田の仕事を代打として引き受けるものであったと言える。坂田の美意識に誰よりも強く共鳴した青柳でなければ、実現不可能な仕事だっただろう。 キュレーションという仕事に関わる多くの作業のなかで、青柳は彼の普段の美術家としての活動とも連続する、事物の陳列という作業に、最大のエネルギーを注いだように見える。青柳は坂田の選んだ事物が、古道具坂田の店内のように、空間的な余白をもって点在する事物の連関、照応関係のなかでこそより一層輝くということに自覚的だった。それは坂田自身が、理想的な空間的余白をもった古道具の展示を重視するあまり、私設美術館である「museum as it is」をつくったことに連続している。 青柳によってディスプレイされた事物が、白壁を背景として点在する天目里美術館の展示空間は絵画的である。それによって、古道具の金属の細い線のみならず、量塊をもった事物の輪郭ですら、かすかな震えをともなった線描となる。それは、画面のなかの余白を通して、すなわち空隙をはらんだ諸要素の集合を通して風景が立ち上がる山水画の筆法にも連続するものだろう。あるいは岡倉天心が『茶の本』(1906)のなかで、日本において個々の表現媒体はそれぞれ独立したカテゴリーとしてあるのではなく、つねにすべてが連関した総合芸術としてだけ存在するのであり、物の取り合わせによって表現をなす茶人(数寄)の世界こそが、日本的な芸術のあり方を代表する、と考えたことにも通底するかもしれない。数寄は、数を寄せる、とも書くからだ。同じように、古道具もまた、事物の照応関係によってこそ輝く。青柳の事物の配置としてのキュレーション、余白とともにある事物の陳列は、そのような坂田の世界観を可能な限り真摯に受け止めるものである。 美的なものの野蛮な力 ゆえに、美術館のなかに物を自由に配置すれば、今展のような展示が自動的にできあがるわけではもちろんない。古道具坂田の蒐めた物を無色(ニュートラル)な空間のなかで見せることは、青柳が、坂田の「美」を、山水画の筆法のごとき空間的技芸として継承したうえで展開されたものであるからだ。それは、坂田が名付けた美術館の名称「as it is(あるがまま)」と連動するように、物を物それ自体として、あるがままに見せることにつながっている。本展で、展示物からいっさいの説明やキャプションが排除されたことも、このことに関わる。 坂田が「美」と名指したものは、青柳が実現したこの空間的な原理とも連動しているだろう。美の前では、事物がもつ由来や来歴、用途、機能といった情報が消されるからだ。そこに美という概念の危険がある。つまり美は、それぞれの事物がもつ固有の特性を無化してしまうのだ。同じことが柳宗悦の言説に関しても当てはまる。たとえば今和次郎は、柳や濱田庄司、河井寛次郎ら民藝の一派と岩手県の農村調査を行ったさい、鑑賞におぼれ、美に耽溺する柳たちの視線が、農村の具体的な暮らしの実相や福祉やインフラを無視したうえで成り立つものであることを批判している(*1)。 坂田の美もこれと同じく、事物の歴史を漂白し、本来遭遇するはずのなかったものをフラットに並列化する。ゆえに、あるものを美的なものとして提示することと、美術館のような無色の空間のなかで、事物それ自体を(as it is)を見せることはつながっている。 なにかを美的なものとして取り上げることが、その背景を排除することであるのと同様に、特定の事物を美的なものとして特権的に取り上げることは、それ以外の事物を必然的に排除することでもある。美は、そのような排除と選択を含みあわせている。それが美の権力性、暴力性である。柳や坂田の活動は、こうした美のもつ野蛮な力から無関係ではない。 しかし坂田は、美という概念がもつこの暴力的な力をむしろ意図的に行使しようとしたとも言えるのではないか。彼は一貫して、それまで見過ごされてきたもの、貧しく、朽ち果てていくものを美的なものとして提示しようとした。すなわち、美という概念の前では、人間的な利害や関心のいっさいが消失し、あらゆるものが等価になりうるという確信がそこにあったはずである。ゆえに坂田にとって美という概念は、事物に付随する人間的な階層秩序(ハイアラーキー)を回転、転回する契機ともなりうるものだった。そこでは、貧しいもの、ゴミのようなものも、美というフィルターを通して救済されるからである。それは、貧しさを廃絶すべき悪とするのではなく、人間的な利害や関心にいっさいの関心をもたない、「自然」に接近するものとして評価することである。美の非情さは、自然の非情さ、救いのなさに直結している。が、そこにひろがる人を突き放すような静かな余白に、透明で切ない美の悲しさ、寂しさが宿っている。 美を通じた事物の救済 ところで、青柳のキュレーションには、坂田の考えに照らし合わせたときに不可解と思われる箇所があった。それは、社会的な価値や階級、希少性などにかかわらず、高級も低級もなく、あらゆるものは相対的であり、等価であると考えた坂田の姿勢を裏切るように、キリストの磔刑像と木彫の聖母像だけが特権的に高い位置に展示されていたからである。これは、同展を訪れた私の知人も訝しがっていた、この展覧会の最大の難所だった。必然的に、その演出はこの展示に宗教的な空気を与えることになる。 聖母像が見下ろす、展覧会のクライマックスというべき最後の展示室で、古道具坂田の店内で使用されていた琉球畳の上に、イヌイットの骨製のお守りである小さな二艘の舟が置かれていた。舟は、一連の聖像と呼応するものかもしれない。二艘の舟が意味するのは、この展示が誘導する場が、補陀落渡海のような冥界への船出であり、坂田の仕事の要が、彼岸と此岸の二つの世界を往還、循環(リサイクル)させることにあったと思われたからである。古道具坂田という店を通じて、私たちはこの舟に乗る。 古道具屋とはすなわち一種のリサイクル業であり、それは、文字通り事物の「再生」という契機と関わっている。それは美を通じた事物の救済であり、自然への接近であり、死の世界からの復活である。彼の選んだものは明らかに、人間世界から放擲された死後の世界、人間と事物との有機的なつながりが切断された世界への関心に憑かれていた。坂田の古道具に、大正ヒューマニズムを基盤とする柳の民藝思想のなかで提唱された、「用」や「健康性」といった概念とは対局にある、生きた人間の世界から追放され、自然と溶け合うようにゆるやかに衰滅しつつある物たちの寂しさをそこにみないことは難しい。 大袈裟に言えば、坂田にとっての美とは、死後の世界からの復活と救済という問題に関わるものであったと言える。死と生を切り分けながら、その分割を超えること。その運動を体現する(=死後に復活する)キリストの磔刑像に象徴的に託されたのは、そのような復活のイメージであろう。坂田はそれを、人が神に近かった西欧中世の宗教的遺物を繰り返し取り上げることで象徴的に示そうとしたのかもしれない。坂田の古道具の世界は、昭和の時代につくられ、すぐに無用となったであろうゴミのような古道具と、西欧中世の宗教遺物のふたつによって(そのふたつを同等に扱うことによって)体現されている。美的なものの野蛮な力に屈服する事物たちの復活、転回、再生のなかで、すべての物が等しく並び合う。事物たちはこのようにして救済される。 *1──「常民博物館を育てた渋沢さんの周辺」『渋沢敬三(上)』渋沢敬三伝記編纂刊行会編、1979年。
文=沢山遼