“男性特有の匂いが嫌い”や“おじさん詰め合わせ”は「差別発言」指摘も…男性への「ヘイトスピーチ」とはいえない明確な理由
日本国内で「日本人差別」は成立する?
そもそも、「差別を煽動する」とは、具体的にどのような行為をさすのか。 堀田准教授は「特定の集団に対する差別とそれを正当化する言説が過去・現在を貫いて多数存在していることに依拠しながら、それらを総体として肯定し、未来に向けてそれを煽る行為」と表現する。 具体的には、「差別煽動」の実質的な内容は以下のようなものになるという。 「○○人が、過去に入店拒否や雇用差別、教育差別等を含めて様々な不利益・劣等処遇、侮辱や貶め、さらには暴行その他を受けたことは当然だった。今後、○○人には同じ扱いをしてもよく、またそうすべきだ」 そして、このような表現は、日本国内における「日本人」を対象にする場合には「差別煽動」にはあたらない。 たとえば、「日本人を叩き出せ」という言葉は、表面上は「日本人への差別煽動」のように見受けられる。しかし、日本国内では、過去にも現在にも「日本人」であることを理由にした迫害・差別・排除などは存在してこなかった。つまり、差別を成立させるための慣行や言説、背景や文脈が存在しないため、煽動される「日本人差別」も存在しない。 一方で、アメリカには日本人やアジア人に対する差別という歴史的背景や文脈が存在する。実際、第二次世界大戦時、1942年に太平洋沿岸の日系人約12万人が「敵性外国人」として強制収容所に収容されたという歴史がある。そのため、アメリカでは「日本人を叩き出せ」という発言は「差別煽動」となりえる。 「『日本人を叩き出せ』は、不快な発言ではあるかもしれません。しかし、日本社会では、在日朝鮮人や外国人、部落出身とされる人々などへの差別煽動と同等のものとして扱うことはできません。 明確な『差別煽動』表現と、そうではない表現を同等に扱うことは、マイノリティ集団の人々が置かれた状況の深刻さと甚大な害悪を無視または軽視することにしかなりません」(堀田准教授)
ヘイトスピーチの問題は「どっちもどっち」で済まされない
前段落のような議論に対しては「『日本人』や『男性』などのマジョリティに対してもヘイトスピーチが向けられる場合はある」と反論されることもある。 そもそも、現在では「ヘイトスピーチ」は専門用語ではなく、会話やSNS投稿などを通じて日常的にも使われるようになった言葉だ。日常語の用法には幅や揺らぎがあり、唯一の定義は存在しない。 「繰り返しになりますが、ある言葉をどのように定義すべきかは、どのような理由や目的を重視するのか次第で変わります」(堀田准教授) そのうえで、「マジョリティにヘイトスピーチが向けられることもある」との主張について判断するためには、その主張がどのような立場から出されるものかを確認する必要があるという。 「そもそも、『日本人へのヘイト』などの主張は、ヘイトスピーカーに対して反差別のカウンターの人々が罵倒や侮蔑によって対抗したときに、ヘイトスピーカー側が言っていたことでした。ヘイトスピーカーが、自分のヘイト発言を棚に上げてカウンターの罵倒に対して、『それもヘイトスピーチだ』『日本人へのヘイト』などと言っていた、という経緯があることは確認しておく必要があります。 また、当時は『どっちもどっち論』と呼ばれる発想もありました。ヘイトスピーカーとカウンターの人々が怒鳴り合っている場面を切り取って『どちらも悪い』とする見方です。しかし、『どっちもどっち』とすること自体が、元々の社会的マイノリティに対するヘイトスピーチの重大な不当性を軽視することになります。 具体例を挙げると、京都朝鮮学校襲撃事件では、ヘイトスピーカーが『ウジ虫朝鮮人は朝鮮半島に帰れ』『スパイの子どもやないか』『お前らウンコ食っとけ、半島帰って』などと、子どもが学んでいる校舎に向けて拡声器で発言しました(2010年)。対応にあたった人たちは、子どもたちを守ることを最優先して、事態をエスカレートさせないために「何を言われても応対はしない」と努めて冷静に対処しました。その詳細は、中村一成さんの『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件』(岩波書店、2014年)に書かれています。 こうしたヘイトスピーチは路上でも行われましたが、これに対して、カウンター側が『黙れクズ』とか『お前が帰れゴミが』などと発言したとして、私は、両者を本当に『どっちもどっち』と判断している人がいるとしたら、その人はヘイトスピーカー側に立っていると考えます。 ある人が、『マイノリティからマジョリティに向けられる侮蔑的な罵倒なども、マイノリティに対する差別煽動と同等のヘイトスピーチだ』と言うならば、その人はヘイトスピーカーの言い分を認める立場だと見なされることを免れません。 つまり、『マジョリティに向けられるヘイトスピーチもある』という主張する人は、マイノリティへのヘイトスピーチの害悪の深刻さを軽視していることになるのです」(堀田准教授)