「モルモットでも見せ物でもない」「でも、どうか目をそらさないで」…被爆の傷痕見せ語った先人たち
長崎で被爆した被団協代表委員の田中重光さん(83)には忘れられない光景がある。2005年に核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開かれた米国を谷口さんと訪問した。谷口さんは背中に残るケロイドで椅子にもたれることができず、夏でも上着を脱がず動き回っていた。「平和な未来は自ら切り開くという先輩たちの思いを受け継がなければ」。背筋が伸びる思いだった。
田中さんは12日の記者会見にオンラインで参加し、「先輩たちに感謝したい」と語った。13日には谷口さんの墓を訪れ、受賞を報告するつもりだ。
酸素吸入器携え
草の根の活動は、1995年の被爆者援護法施行、2017年の核兵器禁止条約の採択につながった。
「ヒロシマの顔」として活動を引っ張ったのが坪井直(すなお)さん(21年に96歳で死去)だった。20歳の時に広島で被爆し、全身に大やけどを負った。中学教諭として原爆の非人道性を語った「ピカドン先生」は退職後、被爆者運動を先導した。
3歳の時に被爆した清水弘士さん(82)(広島市)は受賞を知った瞬間、継承に命をかけた坪井さんの姿が脳裏をよぎった。「語る資格がないなんて言ってはダメ。あんたも語りなさい」。自身の体験を語ることに消極的だった清水さんを、坪井さんは一喝した。
背中を押され、68歳から被爆証言を始めた。坪井さんの遺志を継ぎ、うっ血性心不全などで今冬に3か月入院してもなお、酸素吸入器を携えて証言を続ける。
今、ロシアによるウクライナ侵略など核兵器の脅威がかつてないほど高まっている。ノーベル賞委員会は、被爆者たちを「歴史の証人」と呼び、自らの体験を語り、核兵器使用をタブーとする価値観の確立に大きく貢献したとたたえた。
清水さんは語る。「『核の脅威を真に訴えられるのは被爆者だけ』と、国際社会から言われた気がして身が引き締まった。今こそ世界に原爆の惨劇をしっかりと届ける」。被爆者の平均年齢は85歳超。残された時間は長くないが、核なき世界の実現を諦めない。