御茶ノ水のビルに帝国ホテルと並び評された歴史 変わる東京の姿を見つめる〝証人〟「お茶の文化」今に残す
御茶ノ水を歩いていると行き当たる、よくある近代的なビルディング。しかし、そこには変わりゆく東京の歴史と、地名に冠した「お茶」にまつわる由縁も隠されていて――ライターの我妻弘崇さんが紐解きます。 【画像】現在の龍名館と旅館時代のモノクロの龍名館の姿、歳月を感じる変化
「御茶ノ水」を歩く
東京に、「御茶ノ水(お茶の水)」という地名はない。 東京都千代田区の神田地区の一部と文京区湯島南部を合わせた広域地名(通称)を「御茶ノ水」と呼ぶものの、「御茶ノ水」という住所表記は存在しない。JR「御茶ノ水」駅周辺の住所表記は、東京都千代田区神田駿河台だ。 では、どうして御茶ノ水と呼ばれるようになったのか――についてだが、その説明をする前に、「駿河台」という地名について触れなければならない。 もともと駿河台は、本郷台地の南端に位置し、「神田山(神田台)」と言われていた。徳川家康が駿府城(現・静岡県静岡市)で亡くなると、駿府詰の家臣団が江戸へ移ってきた。その際、彼らの屋敷地として割り当てられたのが、この地だと言われている。駿府御一行が移り住んだ高台なので、「駿河台」。そのまんま。『うまい棒』みたいなものである。 実はこの高台、なにかと徳川家康とゆかりが深い。 生前、家康が江戸城中で伊達政宗と囲碁を打っていると、「北が危ない。(自分なら)北側から攻める」と政宗がつぶやいた。その言葉を聞き逃さなかった家康は、「どうする?」と一考したかどうかは定かではないが、「江戸城北方の通路である神田山(後の駿河台)を分断せよ」と命じたという。疑い深い、いかにも家康らしい逸話だろう。 神田山の西側から南側を流れていた神田川の水は、家康の掘削工事によって流れが変わり、人工の渓谷へと流れ出るようになった。その後、江戸の人口増加に伴い、現在の文京区の関口に堰を作ることで水位を上げ、飲み水(上水)を江戸の町まで供給できるように工夫する。江戸の名所へと発展する駿河台の見事な渓谷は、家康の杞憂と、江戸の人口爆発がなければ生まれなかったかもしれない。 これが、「御茶ノ水」の由来へとつながる。 渓谷の近くに高林寺という禅寺があった。良質の湧き水を有していたことから、ときの将軍、徳川秀忠に献上したところ、この水でいれたお茶が「とても美味しかった」と褒められた。寺は、「お茶の水高林寺」と呼ばれるまでに評判を呼び、いつからかこの渓谷一帯は、見事な景観もあって「お茶の水」と通称されるようになったという。 中国の名所である赤壁になぞらえ、「小赤壁」と呼ばれるほど江戸時代の人々から愛された場所だったそうだ。御茶ノ水橋の交番脇には、御茶ノ水の地名由来を伝える碑があるが、そこには「茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地となった」と書かれている。 三遊亭圓生著『江戸散歩』(上巻)を読むと、昌平橋のそばから船に乗り込み、船上から神田川の花見を楽しんだ――といった話が登場する。明治42年頃の話だから、明治になってもこの一帯が、東京の名所として親しまれ続けていたことが想像できるだろう。 いま、足早に行き交う学生たちの姿を見ていると、ここが風流を楽しむ景勝地だったとは思えない。だが、じっくりと歩いてみると、たしかに古い時代の名残を感じる場所がある。その一つが、神田駿河台3丁目にある『龍名館』(ホテル龍名館お茶の水本店)だ。