御茶ノ水のビルに帝国ホテルと並び評された歴史 変わる東京の姿を見つめる〝証人〟「お茶の文化」今に残す
「帝国ホテル」と並び
現在は、旅館の系譜を継ぐ近代的なブティックホテルとして生まれ変わっているが、『龍名館』は1899年(明治32年)、洗練された和風の総2階建ての旅館として創業した。庭の一面には西洋館を設け、コックが洋食を提供する、東京時代を予感させるハイカラな旅館だった。作家・幸田露伴の次女である幸田文は、自身の小説「流れる」の中で、『帝国ホテル』と並ぶ名店だと称し、日本画家の川村曼舟や伊東深水らも足しげく通ったという。 しかし、1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって消失してしまう。龍名館広報部の渡邊純衣さんが説明する。 「大震災で被害を受けた建物は、2階建て8室の新館として再建できましたが、世の中の景気は悪く、 龍名館にとっては厳しい時代の幕開けだったと記録されています」 軍靴の足音が迫る時代――。1944年(昭和19年)には、新館8室と広間を「大東亜省」の官舎として貸し出すほどだった。東京大空襲の際には、焼け出された人々を宿泊させた。幸い、本館は焼けずに済んだ。『龍名館』は、変わりゆく東京の姿を見つめ続けてきた生き証人なのだ。 「1973年(昭和48年)、本店を現在のビルに建替えることになりました。本店の敷地には、昔からこの地に伝わる槐(えんじゅ)の木があるのですが、本店を改築する際にも、切り倒さずにすむよう設計しました」(渡邊さん) 現在、『龍名館』は本店のほか、八重洲に『ホテル龍名館東京』を、新橋に『ホテル1899東京』を構える。パッと見は、どれもが近代的なビルディング。しかし、中に入ると伝統が生きている。
「お茶の文化」をいまに残す
「『龍名館』は旅館からスタートしていますので、「和」にはこだわりを持っています。特に、「お茶」を楽しんでいただきたという思いがあります。我々は、お茶の水にルーツを持つ旅館ですから」 そう話すのは、『ホテル1899東京』支配人の勝野友春さん。本店は日本茶レストランを、『ホテル1899東京』は日本茶カフェを併設するように、『龍名館』は風流を楽しむ場所だったお茶の水――そのアイデンティティであるお茶の文化を、いまに残そうとするホテルでもある。 とりわけ、『ホテル1899東京』は、“神は細部に宿る”ならぬ“茶が細部に宿る”ホテルだ。フロントは茶室をモチーフとし、茶釜を置き、お茶(抹茶、煎茶など)を入れてもてなしてくれるこだわりよう。なんでも、「日本茶インストラクター」の資格を持つスタッフまでいるそうだ。室内にも、お茶を想起させる工夫がいたるところに散りばめており、茶せんをイメージした照明や、緑茶成分入りのシャンプー・ボディソープなど、“お茶づくし”で利用客を迎え入れる。 「普通、ホテルの客室にはデスクがあると思うのですが、『ホテル1899東京』は茶屋文化を感じていただきたいとの思いから、デスクは置いていません。その代わりに、窓際にソファーを配置し、「縁側」的なスペースを作りました。お茶を飲んで、ゆっくりリラックスしていただけたら」(勝野さん) 日本のお茶には多様な文化があるのに、意識してお茶と触れ合う時間は、ずいぶんと少なくなった。 「お茶を飲むとき、今ではペットボトルでお茶を飲むことが当たり前になっています。自宅でリラックスする際も、コーヒーや紅茶を飲む人が多いと思います。しかし、お茶にはさまざまな楽しみ方があるんですね。私たちは狭山茶を作っている農家さまをはじめとする全国のお茶に関わる方々と連携して、飲むだけではないお茶の楽しみ方を提供しています。ここが、お茶に対する再発見の場所になってくれたらうれしいです」(勝野さん) 『帝国ホテル』と並ぶ名店だと称した幸田文、その父である露伴は、『一国の首都』の中で、“東京をまん然たる「人間集会処」や「腰掛け若しくは足溜り」の都市にしてはいけない”と説いている。変わりゆくのは景色だけではなく、人の心も同じである――、そう喝破する。 時代の価値観とともに、見てくれが変わっていくのは仕方がないことかもしれない。しかし、中身はそうとは限らない。御茶ノ水の歴史を知る『龍名館』を訪れると、東京にも「変わっていないもの」があることを感じる。「御茶ノ水」と呼ばれる神田駿河台は、文化の匂いが漂う場所なのだ。