豊臣家への「義理」に苦悩する蜂須賀家政
■蜂須賀家政を悩ませる豊臣家への「義理」 蜂須賀家政(はちすかいえまさ)は、父小六正勝が古参の譜代家臣だったにも関わらず、豊臣家を見限り家康方についた打算的な戦国武将というイメージが一般的には強いかもしれません。 家政は父と共に、秀吉が天下統一を進めていく中での主要な戦に、ほぼすべて参加しており、武功も挙げて勝利に貢献しています。 しかし、秀吉死後に豊臣政権が内部分裂を始めると、石田三成(いしだみつなり)たち奉行方への反発もあり、家康を推戴(すいたい)して御家の安泰を図ろうとしていきます。 但し、家政は蜂須賀家の存続を優先して行動する一方で、豊臣家への「義理」も果たそうと苦悩していきます。 ■「義理」とは? 「義理」とは辞書等によると「物事の正しい道筋。また、人の踏み行なうべき道。道理」とあります。 また「社会生活を営む上で、立場上、また道義として、他人に対して務めたり報いたりしなければならないこと。道義」という意味もあります。 「義理」を立てるとは、つきあいや恩義などに対して、それに見合う行為でこたえることを意味し、相手に恩返しするという意味となります。 家政は、蜂須賀家が秀吉から受けてきた恩に「義理」を感じつつも、自家存続のために苦悩していくことになります。 ■蜂須賀家の事績 蜂須賀家は江戸時代になると、足利家の傍流(ぼうりゅう)や斯波(しば)氏の末裔と称するようになりますが、詳細な出自は不明です。 現代の愛知県あま市である尾張国海東郡蜂須賀郷の国人領主で、尾張守護の斯波氏に仕えていたものの、祖父正利(まさとし)の時に、美濃国の斎藤家に従属します。 そして、正勝(まさかつ)のころに織田信長の傘下に入ります。信長の側室で信忠(のぶただ)や信雄(のぶかつ)の母とされる生駒殿とは縁があったようで、家政の正室も生駒家から嫁いでいます。正勝は秀吉の与力に配されて、美濃の斎藤家への調略に貢献しています。1569年ごろには、信長から尾張国春日井郡5000石が与えられています。 秀吉が近江国(おうみのくに)長浜城主となると、正式に豊臣家の直臣となり、長浜にも所領を得ています。その後、中国攻めに従軍し、播磨平定での功績によって播磨国(はりまのくに)龍野5万3000石を拝領します。 家政も、父と共に山崎の合戦や賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに参加し、1584年には父とは別に3000石を与えられています。 1585年には、四国征伐での活躍により阿波一国18万石を領し、国持大名となっています。1586年に正勝が死去すると、家政が家督を継ぎ、九州征伐や小田原征伐、文禄慶長の役に出陣して武功を挙げています。 1598年に秀吉が亡くなると、豊臣政権は内部分裂を始めます。