豊臣家への「義理」に苦悩する蜂須賀家政
■関ヶ原の戦いで見せた豊臣家への「義理」 蜂須賀家は、浅野家や黒田家と共に豊臣家の譜代大名として重きをなしていました。同時に、秀吉の意向によって譜代大名たちに縁戚関係を持たせることで、関係性の強化を図っています。この時に、家政の妹糸姫を秀吉の養女とした上で、黒田長政(くろだながまさ)の正室にしています。 秀吉の死後、家政は文禄慶長の役における論功行賞への不満もあり、家康方として行動していきます。そして関ヶ原の戦いの直前に、徳川家との紐帯を強めるため、嫡子至鎮(よししげ)の正室に家康の外曾孫である登久姫(とくひめ)を迎えます。 その一方で、黒田家も徳川家との縁戚関係構築のために、家政の妹糸姫(いとひめ)をわざわざ離縁して、長政の妻に家康の養女を娶ります。 そして、家政はこの行為に激怒し、その後120年間も黒田家と断交することになります。この態度は、政治的な配慮や思惑もあると思いますが、婚姻を仲介してくれた秀吉や豊臣家への「義理」立ても含まれているようにも見えます。 その後、関ヶ原の戦いでの家政は、東軍に至鎮を従軍させつつも、自身は大坂城に残り、毛利家の西軍参加を押しとどめようとしています。 ただ、至鎮にはわずかな兵しか従軍させず、家政自身もほとんど兵を持たずに入城していたようで、大恩ある豊臣家への「義理」に苦しむ家政の心境を表しているようでした。 しかし、これに失敗し逼塞させられると、自領の阿波を豊臣家に返上しています。豊臣家預かりとなった蜂須賀軍は、毛利軍に編入されてしまいます。 戦後は至鎮の従軍の功により、蜂須賀家は阿波を再度拝領し、国持大名に復帰しています。 ■大坂の陣前後の蜂須賀家の苦悩 その後も家政は、豊臣家への「義理」と御家存続の狭間で苦心します。家政は秀頼(ひでより)から与えられた形見の木像「豊太閤像」を祀るために、秀吉の17回忌の1614年に豊国神社を建てています。徳川家と豊臣家の関係が不穏な時期でもありましたが、家政の別邸の近くの地に創建しています。豊国神社は徳川家を憚(はばか)るために、江戸時代には規模の縮小や名称の変更などをしつつも、現代まで生き残っています。 また戦後に完成した「豊国祭礼図屏風」を手元に置いていたと言われています。家政死後には遺骨と共に、高野山へ奉納されたという説もあります。 さらに、真偽不明と言われていますが、至鎮の英名さを称える逸話の中に、大坂の陣に備えて秀頼からの協力要請の手紙を見た家政が、大坂城へ入城しようとするのを断念させたという話も残されています。 このように、家政が抱える豊臣家への「義理」を感じさせる逸話は多く残されています。 大坂の陣後、至鎮が博労淵(はくろうぶち)の戦いなどで戦功を挙げたこともあり、伊達家の伊予国宇和島10万石に次ぐ、淡路一国8万石もの大幅な加増がありました。これは武功への報奨という意味だけでなく、「義理」に苦しむ家政への慰撫(いぶ)もあったように思われます。 ■実は難しい「義理」の果たし方 家政には御家安泰を図りつつも、徳川家へ誠意を示しながら、豊臣家への「義理」を捨てきれなかったような逸話が多く残されています。 一方で、至鎮は迷いなく徳川方として行動したとされていて、その対比が家政の苦しい立場を表しているように思います。 現代でも、組織内において「義理」の立てる方法やタイミングを間違えると、逆に内部で孤立してしまう恐れがあるため非常に悩まされる事が多々あります。 もし、家政が大坂方と疑われるような行動を取っていたら、筒井家のような末路を歩んでいたかもしれません。 ちなみに、黒田家とはその後和解しています。また、血縁的にも、5代藩主吉武の妻に黒田長政の三女亀子の血を引く女性が嫁いだ事で、長い時間を経て再びつながりを持っています。そして明治天皇の命による豊国神社の再建は、蜂須賀家と黒田家の両家が主導で行っています。
森岡 健司