「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・橋姫⑦ ついに明かされた出生の秘密と「父の遺した手紙」
輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。 NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部。彼女によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。 この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 6 』から第45帖「橋姫(はしひめ)」を全7回でお送りする。 【図解】複雑に入り組む「橋姫」の人物系図
光源氏の死後を描いた、源氏物語の最終パート「宇治十帖」の冒頭である「橋姫」。自身の出生に疑問を抱く薫(かおる)は、宇治の人々と交流する中でその秘密に迫っていき……。 「橋姫」を最初から読む:妻亡き後に2人の娘、世を捨てきれない親王の心境 ※「著者フォロー」をすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。 ■胸がしめつけられるほど悲しい昔話 さて、その暁(あかつき)、八の宮が勤行をするあいだに、中将はあの老女房を呼び出して対面する。この老女房は、姫君たちのお世話役として仕えていて、弁の君という者だった。年齢は六十に少し足らないくらいであるが、雅やかにたしなみのある様子で話をする。亡き権大納言(柏木(かしわぎ))がずっと思い悩んだために病にかかり、あっけなく亡くなってしまったいきさつを話し出して、いつまでも泣き続けている。中将は、「いかにも他人の身の上話として聞いていても、胸がしめつけられるほど悲しい昔話なのに、まして、ずっと長いあいだ気に掛かっていて、真相を知りたくて、いったいことの発端はなんだったのか、どうぞはっきりと教えてくださいと仏にも祈っていた、その験(しるし)だろうか、こうして夢のように胸打たれる昔話を、思いがけない機会に耳にできるなんて」と思うと、涙を止めることができない。
「それにしても、こうしてその当時の真相を知っている人もまだ残っていたのですね。信じられないような、また気恥ずかしいような話ですが、やはりあなたのように、事情を知っていて言い伝えている人はほかにもいるのでしょうか。長年私は耳にしたこともなかったのですが」と訊くと、 「小侍従(こじじゅう(女三の宮の乳母子(めのとご)))と私のほかに知る人はございません。一言たりとも他人には話しておりません。私は頼りなく、人の数にも入らない身の上ですけれど、夜となく昼となくずっとあのお方(柏木)のおそばについておりましたので、自然とことの次第も知ってしまったのですが、お心ひとつに抑えかねるほどお悩みだった時は、ただ私と小侍従の二人を通してだけ、たまさかに宮(女三の宮)さまとお手紙をやりとりなさっていました。失礼かと思いますのでくわしくは申しません。ご臨終という時になって、少しばかりご遺言なさることがあったのですが、私のような分際でいったいどうしたらいいのやら、ずっと気に掛かっておりまして、どうしたらあなたさまにお伝えできるだろうと、験もあてにできないながら念誦の際にも祈っていたのです。やはり仏さまはこの世にいらっしゃるのだと、今こそよくわかりました。お目に掛けなければならないものもございます。もうどうとでもなれ、焼き捨ててしまおう、こうして朝夕のあいだに死ぬかもしれない身で、始末せずに残しておいたら、だれかに見られてしまうかもしれないと、それはもう心配でたまりませんでした。けれどもこちらのお邸で、あなたさまがときどきお見えになるのをお待ちするようになったので、少しばかり安心し、こうした機会もないものだろうかとお祈りする力も湧いてきたのです。本当にこれはこの世のことだけではない、前世からの因縁なのでしょう」と、泣きながらこまごまと、中将が生まれた頃のこともよくよく思い出しては話すのだった。